解決編を斬る
解決編 3 アジア各国政府見解
-4 中国政府の対応 を斬る
2015.04.04 支那中共の非人道的残虐行為をYoutubeで紹介
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引用元URL → http://fightforjustice.info/?page_id=2604 ( 魚拓 )
このページは、webサイト『Fight for Justice 日本軍「慰安婦」――忘却への抵抗・未来の責任』が開
設された2013年08月01日時点で存在しなかったページです。
いつ追加されたのか?は、サイト内に履歴が無いので分かりません。
以下、青い色の文字がwebサイト『Fight for Justice 日本軍「慰安婦」――忘却への抵抗・未来の責
任』からの“引用”です。
-4 中国政府の対応
おいおいおい! いきなり『-4』って何だよ!
何が不都合でアップロードしないのか知らないが、1〜3をスッ飛ばすなよ。
こんなの不自然極まりないぞ。
しかも、あの人権弾圧国家 『中華独裁主義共産国』 が人権ネタで日本を批難って正気か?
慈悲と修羅
https://www.youtube.com/watch?v=R2enSN2nQJg
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チベットにおける中国軍の蛮行
https://www.youtube.com/watch?v=hTKNENM2WoQ
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東トルキスタン East Turkistan -Japanese Version-
https://www.youtube.com/watch?v=qvwV1lXFq2c
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ウイグルの悲劇 中国の狙いは民族絶滅
https://www.youtube.com/watch?v=tHDHM_3jPY8
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東トルキスタン、ウイグル、Sherqiy Turkistan,トフティさんを救おう
https://www.youtube.com/watch?v=vgJVN6ybX_k
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法輪功への大虐殺 / 中国の臓器売買
https://www.youtube.com/watch?v=piw056zZxxA
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天安門事件25年〜中国最大のタブー"大虐殺"の真相〜【ザ・ファクト#10】
https://www.youtube.com/watch?v=xzqVAU4Wm8E
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どんな神経していたら、こういうことやっておきながら日本を人権問題で批難できるんだよ。
そもそも、仮にサヨクの言う通りに狭義にしろ広義にしろ性売買を強要されていたとしても、だ。
中国共産党がやっている被侵略国家や特定団体への弾圧や虐殺に比べたら屁みたいなモンだろ。
日本に謝罪と賠償を要求する前に、中国が被侵略国家や特定団体へ謝罪して賠償すべきだ。
日本の敗戦から1990年代まで
1931年の満州事変から日本の敗戦までの15年に及ぶ日中戦争が終わった後、
中国政府は日本軍による強かんや「慰安婦」犯罪を戦犯裁判で裁き、
実際に明らかになった犯罪も少なからずありました。
既出ですが、極東国際軍事裁判は、法治国家では許されない [ 事後法による遡及判決 ] である。
近い未来に買春行為が死罪になった際に、大昔のソープ通いやちょんの間通いを理由に圭坊「だ
け」が死刑になるのと同じ位に理不尽な裁判の何が有効かものか。
もちろん、大東亜戦争に於いて日本兵が強姦や略奪を一切しなかったとは言わない。
豊かになった今の世でも所謂DQNと呼ばれる低民度層がいて、様々な犯罪を繰り返している。
その多くは出自が朝鮮系だが、中には生粋の日本人も居る。 豊かになった現在の平時に於いてさ
え、そういう連中が強姦や略奪をするのだから、精神的に追い詰められる前線に於いては『いわんや
おや』、であろう。
だとしても、大多数の日本兵は皇軍の名に恥じない立派な兵士であったのです。
長いですが、WGIPに毒された頭には痛恨の一撃になる素晴らしい記事です。 是非、読んで下さい。
YAHOO!知恵袋「日中戦争の真実 1 南京大虐殺捏造の嘘を暴く!」
http://note.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/n183037
> 日中戦争はなぜ起こったか。 日本は中国に「迷惑」をかけたか。
> 今こそ自虐史観を克服し、本当の歴史を知ろう。
>
>
[ 画像:rokokyo.jpg (省略)
蘆溝橋の上の日本兵たち。 ここで共産兵が放った銃弾が日中戦争の始まりだった
>
>
> かつて日本は、第二次世界大戦時に、
> 「大東亜戦争」(アメリカはこれを太平洋戦争と呼ぶ) を戦いました。
> 東亜とは東アジアのことです。
> 日本は東アジアを舞台に、中国、アメリカ、イギリス、その他西欧諸国の連合軍と戦いました。
> しかし、なぜ日本はこの戦争をしなければならなかったのでしょうか。
> 好きこのんで戦争をしたのでしょうか。 いいえ、そうではありません。
> 日本はやむなく、この戦争を戦わざるを得なかったのです。
> 大東亜戦争の発端はと言えば、中国です。
> 日本と中国は 「日中戦争」(支那事変) を交えました。
> さらに日本は、アメリカとも 「日米戦争」 を交えます。
> しかし日米戦争は、中国をめぐる日米対立が原因でしたから、
> 日米戦争は日中戦争から始まったものです。
> また日本が、そののちイギリスその他の西欧諸国と戦ったのも、
> もとはといえば中国での戦争が発端でした。
> ですから、もし日中戦争がなかったら、日米戦争も、日英戦争もなかったでしょう。
> そして大東亜戦争自体が、なかったに違いないのです。
> このように大東亜戦争の発端は、中国でした。 すべてはそこが開始点です。
> なぜ日本は、中国で戦争に巻き込まれたのでしょうか。
> 日本は、中国大陸をわがものにしようと出ていったのでしょうか。
> そうではありません。日本はむしろ、中国の「内戦のわな」に、はまっていったのです。
>
>
> 史上最悪の内戦国家だった中国
>
> 「日本は中国を侵略した」 ということがよく言われてきました。
> 中国人がそう叫び、日本国内にいる反日的日本人もそう叫んできました。
> それが 「正しい歴史認識だ」 と。 しかし史実をみるなら、決してそうではありません。
> 日本が中国に進出したのは、もともと中国の内戦に巻き込まれた、というのが実情です。
> しかし日本は、それでも中国に足を踏み入れた以上、中国の内戦を止め、中国を救おうと
> 奔走しました。
> 中国が共産主義国家になるのを防ごうとし、また欧米の侵略や搾取にあわない
> 自立した民主的国家がそこに誕生するのを手助けしようとしたのです。
> それは中国に安定と秩序をもたらすための人道的、道義的介入でした。
> 人々の中には、日本があたかも 「平和な中国」 に乗り込んでいって
> 戦争を仕掛けたかのように、思っている人もいます。
> しかし、当時の中国はひどい混迷と分裂の状態にあり、内乱と騒乱にあけくれる
> 史上最悪の内戦国家でした。
> 各軍閥(ぐんばつ)は血で血を争う抗争を続け、その犠牲となっているのは一般民衆でした。
> 民間の犠牲者は、ときに数百万人、また数千万人にも達していました。
> そのうえ、頻繁に起こる飢饉により、百万人単位の民衆が餓死するといった事態も、
> 何度も起きていました。
> このような状態は、お隣りに住む日本としても、決して座視できないものだったのです。
> たとえて言うなら、長屋に住んでいる人がいて、そのお隣りに、たくさんの子どもをかかえた
> 夫婦が住んでいるとしましょう。
> 夫婦は毎日ケンカをしていて、物が飛び交い、しばしば窓ガラスを破って物が飛んできます。
> また、彼らは働かないために収入がなく、やがて子どもたちの中に飢え死にする者まで
> 現われました。
> こうした場合、お隣りに住む者としても、決して座視はしていられないでしょう。
> 何とかしてあげたいと思うものです。
> それに加え、この隣人である中国の悲惨な状態を日本が座視していられない、
> もう一つの理由がありました。
> それは当時盛んになっていた西欧列強諸国とソ連(ロシア)による、アジアへの侵略です。
> 西欧列強は当時、次々とアジア諸国に手を伸ばし、植民地化を進めていました。
> アジアの国々から搾取して、自国を富ませるやり方です。
> 主人は白人で、黄色人種は召使いとなるという構図がアジアをおおっていました。
> 1839年に起こった 「アヘン戦争」 は、その西欧のやり方を端的に示すものでした。
> これは、イギリスが清国(中国)に対して仕掛けた卑劣な戦争です。
> イギリスは大量のアヘン(麻薬)を清国に売りつけようとし、それを清国が拒むと、
> 圧倒的な軍事力をもって清国を叩いたのです。
> このようにして中国は、西欧の植民地主義によって蹂躙(じゅうりん)されつつありました。
> 一方、ソ連も、アジアに対し膨張主義をとっていました。
> 共産主義革命を経たソ連は、さらに 「世界革命」 を目指し、
> 全世界を 「赤化」(共産主義化) しようと、南下政策すなわち侵略を続けていたのです。
> 彼らは中国も手に入れようと、虎視眈々(こしたんたん)と機会をねらっていました。
> このように、もしこの混乱する中国に西欧列強またはソ連の勢力がいすわってしまえば、
> 次はお隣りの日本が危険にさらされる番なのは目にみえています。
> したがって日本が望んだことは、この中国が、外国の勢力に侵されることのない
> 近代化された強力な国家となり、やがて日本とも共に手をたずさえて、西欧の植民地主義や
> ソ連の侵略に対抗してくれることだったのです。
>
>
> 清国から日本に続々やって来た留学生たち
>
> それで日本は、一九世紀末から二〇世紀初頭にかけて、清国(中国)からの留学生を
> 毎年喜んで受け入れました。
> 日本は清国から学びに来る彼らに、知識を与え、独立心を育てていきました。
> その中国人留学生の数は、ピーク時の1906年には、2、3万人にものぼったといいます。
> 中国人留学生が日本の港に到着して、まず驚いたことは、小さな学童たちが
> みな学校へ通う姿でした。 それは当時の中国では、考えられない光景だったからです。
> 中国では、学校というのはごく一部の人々のためでした。
> 大多数の人は文盲であり、字が読めなかったのです。
> しかし、向学心に燃えた中国人たちが、競って日本に学んでやって来るようになりました。
> のちに中国に、親日また反共(反共産主義)の南京国民政府を樹立した汪兆銘も、
> 法政大学で学んだ人物です。
> 日本は彼らを喜んで受け入れ、中国の未来のために官民をあげて支援していったのです。
> 当時、日本人の口によくのぼった言葉に、「中国の覚醒」 というのがあります。
> 中国人自身が目覚め、彼らが自分たちで近代化された中国をつくってくれることを、
> 日本人は心から願いました。
> 日本はいずれ中国と共に、東亜世界における共同防衛体制を構築したいと
> 考えていたのです。 西欧列強にもソ連にも侵されることのない共同防衛体制です。
> それが日本の安全保障だからというだけでなく、中国と東アジア全体の繁栄のために
> 不可欠と考えたからでした。
> 日本が中国に求めたのは、あくまでも日中の共存共栄だったのです。
> この 「中国人による中国人のための近代的な中国」 を造るという日本の望みと支援は、
> ある程度まで実を結んでいきます。
> 日本に留学した中国人らは、その後の中国近代化のために知識や技術、文化をもたらして
> いきました。
> それが中国社会に与えた文明開化の衝撃は、かつて日本が遣隋使や遣唐使を通して
> 文明開化を経験したときに匹敵するものだったのです。
> 清朝末期の中国では、学問といえば 「四書五経」 くらいしかありませんでした。
> そこに日本留学経験者たちを通して、はじめて近代的な自然科学が紹介されました。
> また産業、司法制度、文学、近代音楽、自由民権思想、義務教育、近代的警察組織、
> その他近代国家の要素が紹介されていきました。
> その影響の大きさは、たとえば今日も中国語に残っている 「日本語から来た外来語」 の
> 多さにもみることができます。
> 現代中国語にある外来語のうち約36%は、もと日本語のものなのです。
> 今も中国語として使われている次の言葉は、どれも 「中国語となった日本語」 です。
> 「人民」「共和国」「社会」「主義」「改革」「開放」「革命」「進歩」「民主」「思想」「理論」「広場」
> 「石油」「現金」「国際」「学校」「学生」「保健」「出版」「電波」「警察」「栄養」「建築」「工業」
> 「体操」「展覧会」「農作物」「図書館」「生産手段」「新聞記者」……。
> 近代中国の基礎は、日本の影響のもとに造られたといって決して過言ではありません。
> 日本留学ブーム、日本政府による中国近代改革の援助、日本人による革命支援などにより、
> 清朝末期における日中両国は、蜜月ともいえる良い関係となっていました。
> 当時の中国人にただよっていたムードは、「反日」ではなく、むしろ「慕日」であったのです。
>
>
> 清朝の滅亡と中華民国の誕生
>
> さて、やがて清朝の終わりに中国で革命が起こり、中国の多くの省が独立して、
> 彼らは南京に「中華民国」臨時政府を樹立しました(1911年)。
> これはアジア初の共和制国家であり、その臨時大総統に、革命家の孫文(そんぶん)が
> 就任します。
>
>
[ 画像: sonbun.jpg (省略)
孫文。
「中華民国」臨時政府を樹立したが……
>
>
> 孫文は、日本と連携して、近代的な独立国家の中国をつくろうとした人でした。
> もしこの新政府が順調に成長したならば、今日のような共産主義の中国は
> 生まれなかったでしょう。
> しかし、当時の中国は非常に未熟な社会であり、誕生したこの新政府も、
> 日本の明治維新のようにはスムーズにいきませんでした。
> というのは、新政府の人間の多くは信念よりも利害で動く人々であり、
> 利害次第ですぐ寝返る人々だったのです。
> また新政府といっても名ばかりで、充分な資金も国をまとめる力もなく、まったく無力でした。
> 清朝の皇帝もまだ皇帝の座にあり、内乱が収束したわけではありません。
> そうした中、孫文のところに近づいてきた人物がいました。
> 清朝の軍人、袁世凱(えんせいがい)です。
> 彼は結局、陰謀により、この新政府を乗っ取ってしまいます。
>
>
[ 画像:enseigai2.jpg (省略)
袁世凱(えんせいがい)。
陰謀により、新政府を乗っ取ってしまう。
>
>
> 中国の歴史は、李登輝・台湾元総統の言葉を借りれば、
> 常に「だます者と、だまされる者」の歴史です。
> 中国に『六韜』(ろくとう)と呼ばれる歴史書がありますが、
> これは一言でいえば、「いかにして人をだますか」ということが書いてある書物です。
> 中国の歴史を語るうえで、裏切りと、陰謀を抜きに語ることは不可能なのです。
> 袁世凱は、その裏切りの達人だったといってよいでしょう。
> もともと彼は、数々の陰謀と裏切りによって、清国軍の最高司令官の座にのぼりつめた人
> でした。
> 袁世凱は、崩壊寸前の清朝から、孫文を討つために遣わされて来たのです。
> ところが、袁世凱はこともなげに清朝を裏切り、今度は新政府の乗っ取りを謀ります。
> 彼は言葉巧みに孫文に近寄り、幾つかの交換条件とともに、
> 「 私が清の皇帝を退位させるから、私を中華民国の大総統にしてくれ 」
> と孫文に持ちかけます。
> 新政府の弱体さに悩んでいた孫文は、やむなく袁世凱に大総統の地位をゆずってしまいます。
> このとき、大きな失望を味わったのが、それまで孫文を支援してきた日本人志士たちでした。
> そもそも日本人志士たちが孫文を支援してきたのは、列強の侵略になすすべを持たない
> 腐敗堕落した清国政府を倒し、新政権を打ち立て、日本と共にアジアの富強をはかろうという、
> 孫文の主張に共鳴したからでした。
> 一方で、彼らの目には、袁世凱はとてもそのような理念を解せる人物には映りませんでした。
> 日本人志士のひとり、内田良平は、孫文がいとも簡単に政権を袁世凱に譲り渡したことを
> 知って、激怒して言いました。
> 「 敵と内通するとは、支那古来の易姓革命と変わらない。
> アジアの解放という崇高な人道的使命を分担させられるかのような期待を、
> 孫文に抱き続けたことは誤りだった 」
> かつて日本の明治維新の推進者たちは、私利私欲では決して動かず、大局を観て、
> 国家の未来だけを思う人々でした。
> しかし中国では、残念なことに、利害次第でどうにでも動く人々が大勢を占めていたのです。
> あの関東軍の石原莞爾も、孫文の中華民国政府が誕生したとき、心から喜んだ一人でした。
> けれども、孫文の袁世凱への政権委譲を聞いて落胆し、
> 「 漢民族に近代国家を建設するのは不可能だ 」
> と言いました。 大局を観ずに、場当たり的な行動をする孫文に深く失望したのです。
> このとき、中国での維新を目指し、「中国人による中国人のための近代的中国」 をつくろうと
> してきた日本の試みは、実質的に挫折したと言ってよいでしょう。
> 案の定、袁世凱はその後まもなく、孫文らを裏切ります。
> すべては国家を私物化するための袁世凱の策略だったのです。
> 袁世凱は、孫文らがつくった民主的な新法も廃止し、彼らを追い出し、宋教仁をも暗殺して、
> 独裁政治を始めました。
> こうして、単に独裁者が入れ替わっただけの革命となり、中国近代化の道は遠のいたのです。
> 孫文らは抵抗しますが、もはやあとの祭りで、彼らは敗北し、またもや中国は混乱の泥沼に
> 入り込んでいきました。
>
>
> 夷をもって夷を制す
>
> 中華民国の新しい大総統になったこの袁世凱が、そのとき自らの保身のために考えたことは
> 一体何だったでしょう。
> それは、
> 「 夷(い)をもって夷を制す 」
> ということでした。 「夷」とは外国のこと。
> つまり外国勢力同士を対立させ、戦わせて力をそぎ、自己の延命をはかることでした。
> またこれは、単に外国勢力同士だけでなく、自分以外の複数の勢力間にトラブルを起こし、
> 彼らを戦わせて、自分だけが生き残ろうとする 「生き残りの哲学」 でもありました。
> 「夷をもって夷を制す」 は、中国人の伝統的な思考法です。
> これは一見、利口なやり方に見えるかもしれませんが、結局これが中国を亡国の道へと
> 誘い込むことになります。 これは中国を戦場化する元凶となったのです。
> 袁世凱は 「夷をもって夷を制す」 の考えにより、まず西欧列強と日本の間に対立を
> 生み出します。
> 満州にもアメリカを引き入れて、日本とアメリカの利害が対立するよう仕向けました。
> また、中国民衆と日本の間にも対立を生もうと、様々なウソを流して、
> 反日宣伝をし始めたのです。 その反日宣伝は、相当な効果を生みました。
> その反日宣伝の一環に、たとえば有名な、
> 「二一カ条の要求」
> があります。
> これは日本が袁世凱政府に提出したものですが、日本が中国の新政府のもとでも
> 正常な経済活動等ができるように求めた要求、というよりは希望でした。
> なぜなら、交渉を通して幾度かの修正や削除が行なわれているからです。
> この 「二一カ条の要求」 は、日本の侵略的姿勢を表すものと言われていますが、
> そんなことはありません。
> たとえば孫文は当時、この二一ヶ条について、
> 「 日本政府の態度は東洋の平和を確保し、日中の親善を図る上で妥当なものだ 」
> と理解を示しました。
> 孫文はさらに、日本の外務省に日中盟約案を送っており、
> それは日本政府の 「二一カ条の要求」 とほとんど内容が符合するものでした。
> このように日本政府の 「要求」 は、当時としては決して理不尽なものではなかったのです。
> ところが袁世凱は、その内容をゆがめて内外に伝えます。
> 日本側としては全く記憶にない 「要求」 まででっち上げて、
> 「日本はこんなにひどいことを言う」 と悪口を言いふらしました。
> それによって国外では、西欧列強と日本が対立するようになります。
> また国内では、排日運動が巻き起こりました。
> 条約締結の日も、「国恥記念日」 として民衆に反日感情があおられました。
> 中国では民衆の不満は、政府にではなく外に向けさせることが、為政者の伝統なのです。
> つまり「悪いことはすべて他人のせいにする」―― その戦法で、中国民衆に反日感情を
> 生んでいきました。
> 袁世凱はこうして、自分以外の複数の勢力を対立させ、彼らの対立を利用して
> 自己の保身をはかるという、「夷をもって夷を制す」 の考えで行動した人でした。
> この考えは、のちに見るように共産党の毛沢東も使ったものであり、
> 中国の混乱をさらに激化させ、戦場としていく原因となりました。
>
>
> 久保有政著
YAHOO!知恵袋「日中戦争の真実 2 南京大虐殺捏造の嘘を暴く!」
http://note.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/n183047
> 排外運動に翻弄された日本
>
> さらに、反日感情のもう一つの源泉は、「中華思想」 でした。
> これは、中国文明が世界の中心であり、そこから離れた遠い国ほど野蛮で、劣った国だという
> 思想です。
> つまり唯我独尊、独善的な思想なのですが、これにより民衆の中に、
> 「日本や西欧諸国は中国より劣った野蛮な国だから、排斥すべきだ」 という
> 「排外運動」が起きるようになります。
> 西洋人に対するテロや、焼き討ち、虐殺といった事件が多数起きました。
> しかし、中国人のそうした排外運動は、やがて西洋人よりも、とくに日本人に対して
> 向けられるようになります。
> どうしてでしょうか。
> それは、西洋が排外運動を強圧的に封じ込めたのに対し、日本はそれをしなかったからです。
> たとえば、1926年に 「万県事件」 というのがありました。
> 長江一帯で、反英運動が広まるなか、イギリスの商船が中国側に拿捕されたのです。
> そのときイギリスは、砲艦二隻を派遣し、砲撃の末、町を徹底的に破壊しました。
> これにより、中国人はすっかり縮み上がってしまいました。
> その結果、反英運動もなくなったのです。
> これについて台湾の歴史家、黄文雄氏は、
> 「 自分のかなわない相手とみるや、とことん従順になるのが中国人の特性である 」
> と語っています。
> 中国人は、暴君として臨んだ西欧列強を、自分が勝てない相手とみるや従順になったのです。
> ところが以来、この民衆の排外エネルギーは、イギリスのような苛酷な措置をとらない日本に
> しぼられるようになります。
> 日本人も、イギリス人と同様、排外主義のターゲットにされ、テロをされたり、攻撃されたり
> していました。 しかし日本は、極力自重して、反撃をしませんでした。
> 日本人は、何とか中国と友好関係を築こうと、忍耐強く平和的解決を努力したのです。
> 「幣原(しではら)外交」(幣原喜重郎外相) として知られる平和主義などです。
> ところが、中国人は暴君には慣れていましたが、平和主義には慣れておらず、
> それを理解しませんでした。
> 中国人は、そんな弱腰な友好的態度をとろうとする日本は、何か弱みを持っているからだろうと
> 考えたのです。 西洋は強いが、日本は弱いと。
> また、日本の中国での行動は、暴虐な西洋諸国に比べると、あまりに誠実でした。
> たとえば北清事件の際、西欧列強の軍隊が占領した地域では住民への略奪、暴行、殺人が
> 繰り返されていました。
> しかし日本軍の占領地域では、ほぼ完璧なまでに治安が維持され、
> 住民の救済も周到に行なわれていました。
> 日中戦争中も、飢饉や戦闘に巻き込まれて傷ついた中国の民間人を、
> 日本軍は多数救済しています。 救済された住民は日本に感謝しました。
> ところが、周囲の他の中国人は、そのような日本人の行動を理解せず、
> 弱者にもやさしい日本人を侮り始めたのです。
> これには中国人の特質が関係しています。
> 日本には、「弱きを助け、強きをくじく」 という伝統的美徳があります。
> ところが中国にはそういった観念はありません。
> 中国では、強者はつねに弱者を虐げる者なのです。
> 強者は弱者を助ける、という観念はありません。
> 中国ではいつも暴君が上に立ち、民衆はそれに支配され、搾取されてきました。
> 民衆は5000年間、抑圧されて生きることしか知りません。
> ですから中国人は、弱者を助ける日本人や、暴力を受けてもなかなか反撃しない日本人を
> みたとき、その行動を理解せず、それは日本人に「弱み」があるからだと考えたのです。
> 中国の文豪・魯迅(1881〜1936年)は、
> 中国人は、相手が弱いとみるや、その弱みにつけこむ民族だと嘆いています。
> たとえば呉越の戦いの物語に象徴されるように、
> 相手の弱みをみると、それにつけこまなければ天罰が下るとさえ考える民族が、
> 中国人なのです。
> 黄文雄氏もこう述べています。
>
>
[ 画像:rojin.jpg (省略)
彼は、中国人は相手が弱いとみるや、その弱みにつけこむ民族だと嘆いた
>
>
> 「 弱者にまで友好的な態度を取るとなれば、
> それはよほど無力であり、弱みがあるからだろうと解釈し、つけこんでくるのだ。
> これは有史以来、戦乱、飢饉の絶え間ない弱肉強食の世界で生きてきた
> 中国人の生存本能がなせるわざだろう 」
>
> このように中国人は、西洋は強いので逆らっても勝てないが、日本は弱いから逆らえると
> みたとき、西欧に対する排外主義を引っ込め、反日主義にしぼりました。
> つまり日本人の中国人への同情とやさしさが、かえって日本人への侮りと、反日運動を
> 増長させる結果となったのです。
> これは、日本人には理解できないことかもしれません。
> しかし、それほどに中国人と日本人は違うのです。
> 中国人のこの性向は、今日も同じです。
> たとえば中国にとって、アメリカは昔も今も大きな敵です。
> しかし中国で反米主義は燃え上がりません。
> それは、アメリカには逆立ちしても勝てないからです。
> けれども、日本には逆らえます。 日本人は自虐的で、おどせば、すぐ謝るからです。
> ですから日本人が自虐的になればなるほど、中国は加虐的になってきます。
> こうして中国は、政府主導で反日主義を今も燃え上がらせるのです。
> そして国内の不満を外に向け、民衆の不満のガス抜きをしているわけです。
>
>
> 混乱と死の大地だった中国
>
> さて、日中戦争(1937〜45年)が始まった頃の中国とはどんな国だったかを、
> 少しみてみましょう。
> 当時の中国は、飢饉と内乱で毎年数百万人、ときには数千万人の犠牲者を出す、
> 世界史上まれにみる混乱と死の大地でした。
> 飢饉は毎回、数十万人から数百万人の犠牲者を出し、一千万人を越えることも
> しばしばであったのです。
> 飢えた民衆が各地で人の肉や、自分の子どもの肉を食べたという話が、当時の資料に
> 多く見受けられます。
> また当時の中国は、中華民国政府が誕生したとはいえ、
> それが全土を統治していたわけではなく、実際は他に幾つもの自称「政府」が乱立していまし
た。
> そしてその「政府」たちは、互いに他を「偽政府」とののしりあい、内戦を繰り返していたのです。
> つまり、中国とは言っても国家の体をなしていなかったのです。
> また、内戦によっても、多くの民衆が犠牲になっていました。
> 数百万、また数千万人の犠牲者を出すこともありました。
> ですから中国の人口は常に大きく変動していたのです。
> 当時、中国の市場には、なんと人肉が売られていたほどです。
> 人肉は、獣肉よりも安値でした。 それは獣肉より人肉のほうが豊富に手に入ったからです。
> また男の肉は女の肉よりも安値で売られていました。
> 中国の人肉食文化は唐の時代から記録がありますが、それが二〇世紀前半まで
> 続いていたのです。
> これは、当時の中国がいかに凄惨な混乱と死の大地であったかを、如実に示しています。
> 大多数の民衆は、日々を生きていくのがやっとであり、毛沢東に言わせれば
> 「貧しくて無学無知」 の人々でした。
> そうしたなか、人々の中に、他人が早く死ぬことを望む性格や、人の弱みを見れば
> とことんつけこむ民族性などが形成されていったのです。
>
> さて、孫文のつくった中華革命党は、のちに改組して中国国民党と称しました。
> その孫文の亡きあと、国民党を継いだのが、蒋介石でした。
> しかし蒋介石の国民党も、ひどい内戦を繰り返し、分裂していきます。
> 蒋介石から分かれた人物に、汪兆銘(おうちょうめい)がいます。
> 国民党内では、汪兆銘のほうが蒋介石より人望がありました。
> 汪兆銘は当初は反日家でしたが、のちに中国の未来を考えて親日政権を樹立します。
> 日本は汪兆銘の政権を支援しました。
> 汪兆銘は、孫文の 「三民主義」 を継承し、日本と中国の協力により
> 東アジアに平和と安定と繁栄を築けると信じていました。
> 汪兆銘と蒋介石を比べるなら、汪兆銘のほうがはるかに中国民衆のことを考え、
> 明確な信念で行動していたと言っていいでしょう。
> 一方、蒋介石の行動をみるなら、彼は民衆のために信念で行動していたというより、
> むしろ自分が権力をにぎるためには何でもしたという印象を受けます。
> しかしそれが結局、中国を巨大な戦場と化していってしまうのです。
>
>
> 蒋介石の方向転換
>
> 今も中国政府や、反日的日本人は、「日本の軍国主義が日中戦争を始めた」 と言います。
> しかし日本には、もともと中国と戦争をする気など全くありませんでした。
> 中国の蒋介石側もそうです。 蒋介石も当初、日本と戦う気はありませんでした。
> では、なぜ日本と中国は戦争をしたのでしょうか。
> それは、日中戦争を待ち望んだ人々がいたからです。 毛沢東の中国共産党です。
> 彼ら共産軍は、蒋介石の国民党軍との内戦を戦っていましたが、追いつめられ、
> いまや風前の灯火となっていました。
> そこで起死回生の策として考え出されたのが、日本を中国の内戦に引き込み、
> 日本と蒋介石の軍を戦わせることだったのです。
> 先ほども述べたように、「夷をもって夷を制す 」の考えは、中国人の伝統的な戦法なのです。
> 共産党は 「夷をもって夷を制す」 の考えで、蒋介石の軍と日本軍を戦わせ、
> 両者を消耗させることにより、自らの生き残りをはかったのです。
> それは次のように起きました。
> 蒋介石は西安にいたとき、油断したのでしょう、不意をつかれたところを、ひそんでいた
> 共産兵に捕らえられ、捕虜となってしまいます(西安事件)。
> 蒋介石は、毛沢東の前に連れて来られます。
> 毛沢東は蒋介石を目の前にして、殺してしまおうと思います。
> 敵の大将がお縄になっているのですから、簡単に殺せたでしょう。
> ところが、そこにソ連のモスクワにある「コミンテルン」(国際共産主義運動)本部から、
> 毛沢東に指令が来ます。
> 「 蒋介石を殺さず、蒋介石と日本軍を戦わせよ 」
> と。
> つまり蒋介石の国民党軍と、日本軍を戦わせることにより、両者の力をそぎ、
> その間に共産軍の力を回復せよとの指令です。
> また、そののち力をつけた共産軍が彼らを打ち負かして、中国全土を征服せよという計画です。
> 毛沢東はこの指令に従います。
> まさに 「夷をもって夷を制す」 の考えです。
> 毛沢東は蒋介石に、
> 「 命を助けてやるから、お前は日本軍と戦え 」
> といいました。
> すると蒋介石は、
> 「 それならば、共産軍も国民党軍と一緒に日本と戦え 」
> といいます。 こうして、いわゆる 「国共合作」 が実現したのです。
>
>
[ 画像: shokaiseki.jpg (省略)
蒋介石。
彼の方向転換により、日本は日中戦争を戦わなければならなくなった。
彼の側近には共産党から差し向けられた者たちが多数入り込み、
彼の行動を逐一監視していた。
>
>
> 蒋介石は結局、こうして命拾いしたわけですが、彼は自分の命と引き替えに
> 共産軍の拡大を許したのです。
> また蒋介石が日本と戦うようになった背景には、アメリカの手引きもありました。
> アメリカの物資援助がなければ、蒋介石の軍隊は一歩も立ちゆかなかったからです。
> 蒋介石が戦う相手を共産軍から日本軍に変更したことは、彼の人生において
> 最大の過ちといってよいでしょう。
> なぜならば、そのために彼はのちに共産軍に負け、中国大陸から逃げ出して、
> 泣きながら台湾に渡らねばならないはめになったからです。
>
> また、これは単に彼の過ちだったというだけでなく、中国の歴史にとって
> きわめて不幸なことでした。
> 国共合作といっても、実際は共産軍はほとんど何もせず、日本軍と戦ったのは
> 蒋介石のほうでした。
> 共産軍は、蒋介石の国民党軍を利用したのです。
> 国民党軍が日本と戦っている間に、共産軍は力を回復し、
> やがて日本が中国大陸から去ったあとに、国民党軍を打ち負かすことになります。
> その結果、中国は近代的国家になるどころか、結局、全体主義的な共産主義国となって
> しまったのです。
>
>
> 共産軍の策略
>
> 日中戦争、すなわち蒋介石の軍と日本軍の最初の交戦は、ある小さな出来事を通して
> 始まりました。 それは、共産兵が仕掛けた事件でした。
> 当時、日本軍は中国の北京近郊や、満州に、今日でいう 「平和維持軍」 の形で
> 駐留していました。
> もちろん、こうした駐兵は、平時においてはすべて国際条約に基づいた合法的なものです。
> 決して 「土足であがりこんだ」 というようなものではありません。
> 北京近郊での駐留も、北京議定書という法的根拠に基づいていました。
> 今日もイラクや、アフガニスタンには、列強諸国の軍隊が平和維持軍として駐留していますが、
> それと同様の形です。
> 当時の中国は、外国の平和維持軍の存在なしには治安を守れなかったのです。
> しかし、その駐留していた日本軍を中国の内戦に巻き込もうと、
> 共産軍はある策略をめぐらしました。それが「蘆溝橋(ろこうきょう)事件」です(1937年)。
> 蘆溝橋(北京市南西郊外)の北で夜間演習中の日本軍に、中国側からと思われる
> 数発の銃弾が撃ち込まれたのです。
> しかし当時、日本は中国との紛争を避ける方針でしたから、それに応戦しませんでした。
> けれども、翌朝、再三にわたる銃撃を受けたため、ようやく付近にいる中国の国民党軍を
> 攻撃しました。
> これが蘆溝橋事件のあらましですが、事件の引き金となった銃弾は
> 共産兵が撃ち放ったもの、というのが今日の定説です。
> 中国政府は 「日本軍の攻撃」 としていますが、そうではありません。
> 事実、かつて共産党の劉少奇は、この事件を自分の工作実績の自慢話として語っていました。
> また共産軍は、事件の翌日、日本との開戦を主張する激烈な声明を出しています。
> そして蒋介石に対日開戦を強く迫りました。
> また事件直後に、コミンテルンは中国共産党へ、
> 「 局地解決を避け、日中全面戦争に導け 」 「 局地解決を行なう要人は抹殺しろ 」
> との指令を出しています。
> それで共産軍は、現地の停戦協定が成立し、戦争が終わりそうになると、
> 各地で日本人に対するテロを繰り返し、戦争を挑発しました。
> 日本人200名以上が虐殺された事件も、そのときに起きています。
> しかしそれでも、日本は忍耐の限りを尽くしました。
> 戦争の挑発になかなか乗らず、たとえば1938年から1941年の間に、
> 12回もの和平提案を行なっています。 しかも、その条件は中国側に有利なものでした。
> 中国に対する領土的要求も含まれていませんでした。
> けれども、やがて共産軍の陰謀は成功します。
> 日本は蒋介石の国民党軍と全面的な戦争状態に入っていきました。
> 日本はこうして 「内戦のわな」 に、はまっていったのです。
>
> 日本軍と国民党軍との戦いは、実際にはほとんどの場合、日本軍が攻撃すると
> 国民党軍が逃げるという形で進みました。
> 国民党軍は、やがてどんどん弱体化し、重慶のあたりまで引き下がらざるを得ませんでした。
> 一方、そのあいだに共産軍はどんどん力を回復し、日本軍の後方に広がることができたので
す。
>
> やがて1945年、日本がポツダム宣言を受諾し、連合国に降伏すると、
> 日本は中国大陸から引き上げていきました。
> しかしその直後、共産軍と国民党軍の内戦が再び勃発しました。
> 共産軍はまたたく間に国民党軍を破り、全土を制覇しました。
> こうして共産主義の中国が誕生したのです。
> つまり、日本軍を巧みに中国内戦に巻き込むことによって、共産軍は生き返り、
> 自分たちの目的を果たしたのでした。
>
> この共産党の策略について如実に語っている出来事があります。
> 1964年に、佐々木更三委員長を団長とする日本社会党訪中団が、毛沢東と会談し、
> 「日本軍国主義の中国侵略」 について 「謝罪」 しました。
> 社会党というのは、「日本は中国で悪いことばかりしてきた」 という歴史観を教え込まれた
> 人々です。 彼らが謝罪すると、毛沢東は言ったのです。
> 「 何も申し訳なく思うことはない。
> 日本軍国主義は中国に大きな利益をもたらし、中国人民に権力を奪取させてくれた。
> 皇軍(日本軍)なしには、我々が権力を奪取することは不可能だった 」
> そう言って 「日本に感謝した」 話は有名です。
> もちろん、これは本当の意味での 「感謝」 ではありません。
> 共産党の謀略にまんまとひっかかった日本に対する一種の嘲笑の言葉なのです。
> 毛沢東にしてみれば、日本軍が国民党軍を叩いてくれたからこそ、
> その間に共産軍が息を吹きかえし、全土を征服することができたからです。
> 彼こそ、史上最悪の中国内戦によって
> 「漁夫の利」(両者の争いに乗じて苦労せずに利益を横取りする) を得た者でした。
> このように、中国共産党を相手に 「謝罪」 することがいかに愚かなことか、
> もっと多くの日本人が知るべきでしょう。
> 「日本は中国に迷惑をかけた」 どころか、迷惑を受けたのは日本のほうなのです。
>
>
> 久保有政著
YAHOO!知恵袋「日中戦争の真実 3 南京大虐殺捏造の嘘を暴く!」
http://note.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/n183054
> 日本は、内戦に明け暮れる中国を救おうとした
> ローマ法王も、日本の行動を支持していた
>
>
[ 画像:china10_1937_solder_and_chiredren.jpg (省略)
日本兵らと遊ぶ中国人児童ら(1937年)
日本兵たちは中国の民衆からは温かく迎えられていた。
>
>
> 前項では、「夷(い 外国)をもって夷を制す」 の中国政治家の考え方により、
> 日本が中国の内戦に引き込まれていったことをみました。
> この項では、中国における日本の軍隊の行動について、もう少しみてみましょう。
>
>
> 中国民衆を虫けらのように殺した中国軍
>
> 中国軍と、日本軍の間には、大きな質的差異がありました。
> それは、中国軍は同胞である中国民衆を行く先々で強奪し、また大量殺害したのに対し、
> 日本軍は行く先々で彼らを救済しようとしたことです。
>
> 中国では伝統的に、民衆とは、戦乱で虫けらのように殺される存在であり、
> 少なくとも権力者から愛護を受ける対象とはなっていませんでした。
> 梁啓超は、中国の民衆を 「戮民」(りくみん 殺戮される民) と呼んでいます。
> たとえば、「国共合作」 により共産軍と組んで日本との戦いを始めた蒋介石の軍隊は、
> 1938年、日本軍の進撃の道をはばもうと、黄河の堤防を爆破しました。
> このとき、大雨が降ったこともあって11の都市と、4千の村が水没し、
> 水死者100万人、その他の被害者600万人という大惨事となりました。
> しかも、それだけでは終わりませんでした。
> この人為的水害の結果、黄河の水路が変わり、周辺に大飢饉が広がったのです。
> そして、被災地で食糧不足に悩んだ中国軍部隊は、民衆から食糧の強奪を始めたため、
> 飢饉はさらに深刻化しました。
> その惨状をみた当時のアメリカ人記者は、
> 「 道ばたには凍死者と餓死者があふれ、飢えた人々は屍肉を食べていた 」
> と報じています。
> 中国側はまた、事件直後から、堤防決壊を日本軍のしわざとして宣伝もしていました。
> しかし中国側のこの自作自演は、のちに外国人記者に見破られています。
>
> この堤防決壊のとき、日本軍兵士は一人も死にませんでした。
> それはただ、中国人を大量殺戮しただけで終わったのです。
> 堤防決壊の直後、日本軍は堤防の修復作業を行なっただけでなく、被災した民衆の救助と、
> 防疫作業を行ないました。
> 日本軍は、中国軍から虫けらのように扱われた中国民衆を、必死になって救済したのです。
> こうした中国軍の性格は、蒋介石の軍だけでなく、毛沢東の共産軍でも同様でした。
> いや、共産軍はもっとひどいものでした。
> 共産軍は、民衆から 「共匪」(きょうひ) すなわち共産主義の匪賊と呼ばれていました。
> それは彼らが行く先々で、民衆に略奪、殺人、強姦を働いたからです。
>
> 中国の軍隊は、共産軍でも国民党軍でも、基本的に軍隊というより、ルンペンを寄せ集めた
> ような集団にすぎなかったのです。
> 彼らが軍隊に入ったのは、占領地区で略奪が出来るため、食いっぱぐれがなかったからです。
> ですから中国の司令官は、ある土地を占領すると、最低一週間は兵士たちの好きなように
> 略奪や強姦をさせました。 また、そうしないと司令官が殺されてしまったからです。
> 日中戦争における戦闘は、たいていの場合、日本軍が攻めると中国軍が撤退し敗走する、
> という形で進みました。
> ですから、激戦地を除けば、中国側が宣伝するほど日本軍に殺された中国兵の死者は
> 多くはありませんでした。
> むしろ中国兵の死者の多くは、中国人が中国人を殺したものでした。
> 中国の軍隊というのは、兵士たちの後ろに 「督戦隊」(とくせんたい) がいたのです。
> 督戦隊とは、後ろで 「敵を殺せ、殺せ」 と叫びながら兵士たちを戦わせ、
> 逃げる兵士がいると、その兵士を撃ち殺す中国兵です。
> つまり中国兵が中国兵を殺したのです。
> 中国史家・黄文雄氏によれば、日中戦争時の死傷者は、
> 日本軍によって殺された中国兵よりも、そうやって督戦隊に殺された中国兵たちのほうが
> 多かったくらいだといいます。
> また、中国兵は負傷すると、置き去りにされました。
> ある戦場で、中国兵の一団が塹壕(ざんごう)の中で戦死していました。
> それを発見した日本兵たちは、思わず涙を流したといいます。
> なぜなら彼らの足には、逃亡防止のための鉄の鎖がつけられていたからです。
> 日本軍と中国軍とでは、質の上でそれほどの差があったのです。
>
>
[ 画像:china04_Munt for Sonbun stirture.jpg (省略)
道端に打ち倒されていた孫文の銅像に青天白日旗をかけてあげる日本兵。
中国の伝統文化への尊敬心から出た行為である。
現地市民の間でも、日本軍は、シナ軍よりもよっぽど信用できるとの評価を得ていた。
>
>
> 本当の人民解放軍は日本軍だった
>
> また中国軍と日本軍の性格を大ざっぱにみるなら、次のように言うことができます。
> 中国軍が通った地は至る所、はげたかの大軍が通ったように略奪されました。
> さらに彼らは占領地域を去るとき、日本軍に何も残さないようにするため、
> 「焦土(しょうど)作戦」 を取りました。
> つまり退却のたびに、道路や工場、橋、潅漑施設、その他の施設を次々に破壊したのです。
> そのため中国軍が通るところすべてが荒廃していきました。
> 彼らの行動の特徴は、略奪と破壊だったのです。
> それによって中国経済は破壊され、農業も工業も壊滅的被害を受け、
> 人民は苦しむばかりとなっていました。
> とくに悲惨だったのは、民衆の大半を占める農民たちでした。
> 一方、そのあとにやって来た日本軍は、当初から農民たちの救済と、中国経済の再建に
> 取り組んだのです。
> 日本軍が占領した地域は、中国本土の人口の約40%、また耕地面積の54%に及びましたが、
> 日本はすぐにその地域での農業再建、道路や潅漑施設の復興、工場の再建などに
> 取り組みました。
>
> 日本は中国の住民の救済、治安維持、戦災復興などに取り組んだので、
> それまで軍隊とは匪賊にすぎないと思っていた中国民衆は驚き、日本軍を熱烈に歓迎しまし
た。
> 統率がとれ、略奪や悪事を働かず、民衆を救う軍隊というものを、彼らは生まれて初めて
> 見たからです。
> 本当の「人民解放軍」は中国軍ではなく、日本軍だったのです。
>
> 日本が占領地域でとくに力を入れたのは、農民の救済でした。
> 日本政府はすでに1938年に中国での農業復興の計画を発表し、実行に移しています。
> それは日本・満州・支那(中国)の三国が相携えて、互助関係を築くことを目的としたものでし
た。
> それにより、日本の占領地域での農業は飛躍的に増大しました。
> 日本人技術者が中国農民に、日本の農業技術を提供していったからです。
> もちろん戦時下のため、悪戦苦闘はありましたが、それでも日本の努力は多くのところで
> 実を結んでいました。
>
>
[ 画像:China02_1938 picture.jpg (省略)
中国人の子供や大人と共に正月の万歳をする日本兵たち(1938年)
すでに日中戦争が始まっていた時である。
>
>
> 農業だけでなく、軽工業、重工業などの再建にも取り組みました。
> 日本はまた中国に鉄道を敷き、病院を建てました。
> 疫病の多かった中国の衛生事情の改善にも努めました。
> さらに、絶望視されていた中国の製糸業を復興させたのも、日本の対中国投資によるもので
す。
> 日本は、満州や、朝鮮、台湾などで行なっていた近代化建設事業を、中国でも、すでに
> 日中戦争のさなかから始めていたのです。
> それによって占領地域のインフラ整備、産業の復興が行なわれました。
>
> 日本政府の推計によると、1938年から終戦の45年までの日本の対中国投資の累計は、
> 約47億円にも達していました。
> 当時の日本の国家予算は約20億円ですから、どれだけ巨額かわかるでしょう。
> これは戦争に使ったお金ではありません。
> 中国の国土と経済の復興に使ったお金なのです。
> このように、中国軍が各地を焦土化し、同胞を虫けらのように殺していたときに、
> 日本は中国民衆の救済と、中国の近代化のために働き続けていました。
> 中国人民の本当の敵は、日本軍ではなく、中国軍だったのです。
> 中国軍は、蒋介石の国民党軍も、毛沢東の共産軍も、その頭の中にあったのは
> 中国人民のことではなく、権力奪取のみでした。
> しかし日本は、なんとか中国を救おうと奔走していたのです。
>
> ですから、中国の老人でこの時代のことを体験した人々の中には、親日的な人々が大勢いま
す。
> ふだんは中国政府の叫ぶ反日イデオロギーの中で大きな声では発言できませんが、
> 彼らは当時の日本人が中国人にしてくれたことを知っているのです。
> 戦後、日本人が中国大陸から引き揚げてくるとき、多くの日本人が帰りそこなって、
> そこに取り残されました (いわゆる中国残留孤児)。
> しかしそのとき、残留日本人を助けてくれた中国人たちがかなりいました。
> そうした中国人の多くは、戦時中の中国兵がいかに悪かったか、
> また日本軍が中国の民衆を助けたことを、よく知っていたので、日本人を助けてくれたのです。
>
>
[ 画像: china05_JPsolders_and child.jpg (省略)
中国人の子供を可愛がる日本兵(1938年)
>
>
> ローマ法王は日本の行動を支持した
>
> もともと、中国の内戦に巻き込まれたかたちで、中国内部に足を踏み入れた日本軍でした。
> しかし踏み入れた以上、日本は、そこが共産主義国家になってしまうのを防ぐため、
> 多大な尽力をなしました。
> またそこに、欧米の侵略や搾取の餌食とならない自立した民主的国家が誕生するよう、
> 手を差し伸べたのです。
>
> 日本は中国を 「自分の領土」 とするために戦っていたのではありません。
> 日本は中国の 「領土保全」 をかかげ、誰からも侵略されない、中国人による中国人のための
> 安定した国家がそこに誕生することを目指したのです。
> そして日本と手をたずさえて、アジアを共産主義から守る防波堤になること、
> そこに一大経済圏が生まれることを目指しました。
>
> ですから、日中戦争(支那事変)が始まった年である1937年10月に、
> 当時のローマ法王、平和主義者として知られるピオ11世(在位1922-39)は、
> この日本の行動に理解を示し、全世界のカトリック教徒に対して日本軍への協力を
> 呼びかけました。
> 法王は、
> 「 日本の行動は、侵略ではない。 日本は中国(支那)を守ろうとしているのである。
> 日本は共産主義を排除するために戦っている。
> 共産主義が存在する限り、全世界のカトリック教会、信徒は、遠慮なく日本軍に協力せよ 」
> といった内容の声明を出しています。
>
>
[ 画像: Pius11.jpg (省略)
ローマ法王ピオ11世。
日本軍の行動を理解し、全カトリック教徒に、日本軍への協力を呼びかけた
>
>
> この声明は当時の日本でも報道されました
> ( 「東京朝日新聞」夕刊、昭和12年10月16日および17日)。
> 新聞は、
> 「 これこそは、わが国の対支那政策の根本を諒解(りょうかい)するものであり、
> 知己(ちき。事情をよく理解している人)の言葉として、百万の援兵にも比すべきである。
> 英米諸国における認識不足の反日論を相殺して、なお余りあるというべきである 」
> と歓迎の意を表しています。
> ローマ法王がこのように日本の行動に賛意を表してくれたことは、
> 欧米の誤解や反日主義に悩まされてきた日本にとって、非常にうれしいことでした。
> けれども、そのピオ11世も、やがて1939年には世を去ってしまいます。
> そのため欧米の反日主義や、日米戦争勃発を防ぐまでには至らなかったのです。
>
>
> 久保有政著
YAHOO!知恵袋「日中戦争の真実 4 南京大虐殺捏造の嘘を暴く!」
http://note.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/n183064
> 共栄圏をつくろうとした日本
>
> 1937年から始まった日中戦争でしたが、日本はすでに1940年には、
> すでに中国の華北と、華中の一部を支配下におき、その統治を親日政権である
> 汪兆銘(おうちょうめい)の南京政府にゆだねていました。
>
> 日中戦争は8年間続いたと一般にいわれますが、実際には日中の戦闘は
> 一年半あまりで終結し、あとは日本軍はそれ以上領地を広げようとせず、
> 占領地域でのインフラ建設や、経済建設に集中したのです。
>
> その支配地域では、経済、財政、物価、治安が安定し、民衆の生活は他と比べると
> 天国と地獄ほどの差がありました。
> 鉄道もつくられ、人々や物資の移動が容易になりました。
> よく 「日本軍は一方的に略奪と破壊をした」 かのように語られることがありますが、
> 実際は全く逆だったのです。
> だからこそ、汪兆銘の南京政府や、そのもとにいる多くの中国人は日本を支持し、
> 日本と共同して、その地域の発展のために働いたのでした。
>
> 汪兆銘の南京政府が支配する地域では、戦前にも増して平和と繁栄を謳歌していました。
> その象徴が上海です。
> 日中戦争中ですら、そのダンスホールや映画館はどこも満員という活況を呈していました。
> ロシアから逃げてきたユダヤ人たちの居住区も、この上海に設けられ、彼らはそこで
> 安全に暮らしていました。
>
> 一方、蒋介石や毛沢東が支配していた地域は、悲惨でした。
> ただでさえ彼らの軍隊が入ってきたので食糧が不足したばかりか、略奪、搾取が横行したた
め、
> たちまち住民は地獄の生活へと転落したのです。
> もっとも蒋介石は、日本人のような規律ある生活習慣を目指した 「新生活運動」 を実施し、
> 中国兵の乱れた規律を正そうと努力はしましたが、それでもなかなか実を結ぶことは
> できませんでした。
>
> 日中戦争中、アメリカがいわゆる 「援蒋ルート」 を通して、重慶にいる蒋介石軍に
> 様々な物資を送り届けていたことは、よく知られています。
> 兵器、弾薬、医薬品、食糧などですが、しかし山を越え、川を越えているうちに、
> 重慶まで届いた物資は多くても当初の何分の一かに減っていました。
> それらの地域を支配する匪賊や、他の武装勢力に、通行料として
> 一部物資を渡していたからです。
> 当時、日本の支配地域以外の中国大陸には、匪賊が約2000万人もいたといいます。
> それは中国軍の約10倍に相当します。 彼らは略奪で生計をたてていたのです。
>
> また無事に重慶に届いた物資も、国民党幹部のポケットに入ってしまい、
> 他の者には行き渡りませんでした。
> このように当時の蒋介石の政府が、米国の支援を食い物にしていたことは有名です。
>
> このように、日本の支配地域と、そうでない地域とでは中国民衆の生活に格段の差が
> あったのです。
> 日本はすでに日中戦争のさなかから、中国を近代的民主国家として自立させ、
> アジアの同胞として共に相携えて共栄圏をつくるために、非常な努力を積んでいたからです。
> しかしその望みも、やがて日本が日米戦争で敗戦を迎えたことにより、挫折しました。
> そのとき、日本は中国につくった工場や施設、インフラなどを破壊することなく、
> すべて正確な資産リストを添えて、中国の未来のためにそのまま置いてきました。
> それらは戦後の中国経済の発展の基礎となったものです。
>
> 日本が去ったとき、中国では再び 「国共内戦」、すなわち国民党軍と共産軍の内戦が
> 勃発しました。 これは実質的に、日本が残した遺産の奪い合いでした。
> そしてこの内戦での死者は、日中戦争中の死者よりも多かったのです。
> またこの国共内戦に共産軍が勝利し、中国を統一したとき、共産党はかつて自分たちがなした
> 中国民衆への殺戮、略奪、搾取などを、すべて日本軍の悪行と宣伝して若者たちに教える
> 教育を始めました。
> 以前、私がこれら中国の歴史を 「レムナント誌」 に掲載したとき、ある日本人は
> 「 こんなことがあったなんて知りませんでした。
> 一般に世間で言われていることと何と違うでしょう 」
> と言いました。
> しかし、日本に留学しているある中国人が手紙をくれたのですが、こう書いていました。
> 「 先生は中国に関し真実を書いています。 がんばってください 」
> 中国人も、知っている人は知っているのです。
>
>
[ 画像: china01_Pray for victims.jpg (省略)
「中国無名戦士の墓」と書いた墓標の前で、慰霊祭を行なう日本兵(1938年)。
日本軍は戦闘が終わると敵味方の区別なく、戦闘地にお墓を作ってきた。
中国の文化にはこのようなものはない
>
>
[ 画像:china02.jpg (省略)
北京郊外の中国戦士者墓地に参拝する日本軍将兵(1938年3月)
>
[ 画像:china03.jpg
孟子廟に参拝する日本軍人の心得
>
> ● 日本軍は孟子廟の入り口にこのような注意書きを掲げた。
>
> 「孟子廟に参拝する日本軍人の心得」
>
> 1、孟子は孔子と共に支那人の最も崇拝する偉人である。
> 我々、日本人にとっても精神的文化の恩人である
> 2、参拝する者は、故国において神社、仏閣に参拝すると同様の心得を持って
> 慎み深く行動すること
> 3、模範的行動が皇軍の名誉を発揚し支那民衆に日本軍が親しまれる力となることを
> 忘るべからず
>
>
> 「南京大虐殺」はなかった
>
> 今まで見てきたように、日本軍の進出は内戦の終結、平和の確立、共栄圏の建設を
> 目的としたものであって、決して破壊や虐殺を目的としたものではありませんでした。
> これは、国土の焦土化や、民衆の殺戮を平気で行なっていた中国軍とは、きわめて対照的で
す。
> 日本には、もともとサムライの時代から、民衆の虐殺や焦土化の思想はなかったのです。
> 日中戦争は北京の近くで始まりましたが、北京は無傷でした。
> 武漢三鎮も無傷のまま。他の都市も全部無傷です。
> 日本軍は、都市を破壊する気も、住民を虐殺する気もさらさらなかったのです。
> 日本軍は、都市に近づくときには必ず自由都市(オープン・シティ)宣言をしました。
> 降伏するなら、都市を破壊することもしないし、住民の安全を保証するということです。
> 歴史ある都市を戦場にし破壊していけないからです。
>
> 日本軍は圧倒的に強かったので、たいていの都市では、中国軍はたいした抵抗をすることも
> ないまま逃げ去り、都市は明け渡されました。
> しかし南京で、中国軍は珍しく若干の抵抗をみせました。
> 南京防衛軍司令官の唐生智が 「俺に頑張らせてくれ」 と言ったので、
> 蒋介石も 「頑張れ」 と言ったのです。
> 彼が最後まで頑張れば、ある程度、中国軍の統制もとれたでしょうが、
> この司令官は情けないことに、途中で逃げ出してしまいました。
> 司令官を失なった中国兵たちは、自分たちも逃げようとしました。
> けれども彼らの多くは、逃げる味方の兵隊を後ろから撃つ 「督戦隊」 に殺されました。
> また中国兵の中には、逃げれば督戦隊に殺されるし、残れば日本軍に捕まるということで、
> 民間人を殺し、その着物をはぎ取って着る者たちもいました。
> こうした民間人に化けた中国兵は、それがばれたときに日本兵によって殺されることもありまし
た。
> そのようなことはありましたが、南京で、日本軍による住民の大量虐殺というようなことは
> 決して無かったのです。
>
>
[ 画像:南京占領二日目の写真(1937.12.15)na01.jpg (省略)
南京占領2日目の写真
1937年12月15日、南京城内難民区、
佐藤振壽・東京日々新聞(現在の毎日新聞)カメラマン撮影
参考:昭和12(1937)年12月13日が南京陥落
>
[ 画像:nankin01.jpg (省略)
(朝日新聞)南京占領5日目の写真(第1回の写真特集)
タイトルは「平和甦る南京《皇軍を迎えて歓喜沸く》」
「 17日河村特派員撮影」松井軍司令官を先頭に入城式があった日
占領5日目に早くも露天商が出て、兵隊が銃も持たないで買い物をしている。
(1)兵隊さんの買い物(右)
(2)皇軍入城に安堵して城外の畑を耕す農民達。(中上)
(3)皇軍に保護される避難民の群。(中下)
(4)和やかな床屋さん風景。(左)
>
>
> 中国は、かつて日本軍は南京で30万人の住民を虐殺したと、宣伝しています。
> しかし、これは中国共産党が流したでっち上げです。
> なぜなら、もし南京大虐殺があったなら、南京の安全地区にいた外国人は必ず、
> そのことを世界に発信したはずです。 けれどもそのようなことはありませんでした。
> また、日本が南京に入る前にいた南京の人口は約20万人でした。
> これはいろいろな調査で一致している数字です。
> 20万人の都市で、30万人を虐殺するのは不可能です。
>
> また、日本が南京を占領したあと、逃げていた市民たちが戻ってきて、
> 一ヶ月後には人口25万人になっています。
> これは南京学会が緻密に調査して出した、信頼できる数字です。
> また大虐殺が行なわれた都市に、住民が戻ってくるわけがありません。
> また南京大虐殺の「証拠写真」と言われるものも、今日ではすべて全く関係のない写真か、
> 捏造によるものであることが、明らかになっています。
> 東中野修道著『南京事件「証拠写真」を検証する』等に、詳しく書かれています。
>
> 何年か前、中国系アメリカ人のアイリス・チャンが、英語で『ザ・レイプ・オブ・南京』という
> 本を出し、アメリカでハードカバーで約50万部も売りました。
> これは日本軍が南京で30万人虐殺という蛮行を行なったと宣伝する本で、
> アメリカ人に嘘をばらまいたものです。
> しかしそののち、彼女が書いたことや、そこに使った写真があまりにインチキであることが、
> 多くの批判書によって明らかになりました。
> そうした中、彼女は2004年の暮れに、ピストル自殺しています。
> その理由として、『ロンドン・エコノミスト』はその記事の中で、
> 彼女は自分が書いたことがあまりにインチキと批判されたため、
> それが 「南京虐殺はなかった」 と主張している人たちに有利に働いて、
> それを気に病んだのではないだろうかと推定しています。
>
> また、南京攻略の司令官だった松井石根大将には、こんなエピソードも残っています。
> 南京攻略戦の最中、焼け跡から赤子の泣き声が聞こえてきました。
> 彼は秘書の岡田尚に 「捜して来い」 と命じました。
> 救助された赤子を、松井大将は温泉に入れ、毛布にくるむと、
> 自分の目を細めて抱き上げました。
> 彼は、松井の一字をとって松子と命名してかわいがり、ミルクを飲ませて育てました。
> 南京の入城時には、岡田秘書がこの赤子を背負って入城しました。
>
>
[ 画像:nankin02.jpg (省略)
南京占領8日目の写真(朝日新聞)。
タイトルは、「きのうの敵に温情《南京城内の親善風景》」
(右上) 治療を受けている中国傷病兵
(左上)日本軍将兵の情に食欲を満たす投降兵
(真ん中)中国人のお店で買い物をする日本兵ら
(右下)山田部隊長と語る敵の教導総隊参謀、沈博施小佐
(左下)南京城内でくつろぐ中国人市民ら
>
>
[ 画像: 南京占領本多勝一記者の捏造写真1.jpg (省略)
朝日新聞時代の「本多勝一」氏の捏造写真
著書『中国の日本軍』において、
「 中国の婦女子を狩り集めて連れて行く日本兵。
強姦や輪姦は幼女から老女まで及んだ 」
とキャプションをつけて写真を掲載
しかしこの写真は『アサヒグラフ』昭和12年(1937年)11月10日号に掲載された
「 我が兵士(日本軍)に援けられて
野良仕事より部落へかえる日の丸部落の女子供の群れ 」
という写真であることが秦郁彦により指摘された
この写真は南京大虐殺記念館でも長い間、日本の残虐行為の写真として
展示されていたが、信憑性に乏しいことから展示を取りやめている
>
>
[ 画像: 南京占領本多勝一記者の捏造写真2.jpg (省略)
また、『本多勝一全集14』の『中国の旅(南京編)』では
「 ヤギや鶏などの家畜は、すべて戦利品として日本軍に略奪された
(写真;南京市提供)」
とキャプションをつけて写真を掲載。
しかしこの写真は、『朝日版支那事変画報』にて掲載された
「 民家で買い込んだ鶏を首にぶら下げて前進する兵士 」
という日本側が撮った写真であったことが示されている。
>
>
南京陥落後の本物の映像記録
http://youtu.be/AAJhJnYH7yU
560x315
>
>
> *南京大虐殺 捏造の種明かし*
>
> ■ 『月刊中国』 鳴霞・主幹編集長の南京問題の告白
>
> 以下、『月刊中国』を一部転載させて戴きます
>
> 「 中共では1979年まで南京大虐殺30万人など無かった 」
> 1979年版の全日制中学校歴史教科書に突然、南京大虐殺が登場しました。
>
> 1985年に、日本の国会議員などが数千万円の資金援助をして、
> 南京大虐殺記念館を建てて 「日本軍が30万人虐殺」 したという虚構を宣伝する
> 拠点としました
>
> 中共政権は、1980年代になって初めて、
> 「国民党軍と日本軍が戦争していた」 という抗日戦争の歴史を認めました
> 国民党は台北の 「国軍記念館」 の中に、南京大虐殺30万人という宣伝展示をしました
>
> この記念館は昨年、展示入れ替えと改良工事をしていたが、
> 今でも 「日本軍による南京大虐殺30万人」 という虚構が宣伝展示されているかどうか
>
> 前出の劉燕軍の 「抗日戦争研究第4期」 の中の 「南京大虐殺の歴史記録」 には、
> 「 国民党は我々労働者階級の闘争意欲を弱体化させ、迫害され死去した労働者兄弟たち
は、
> 未だに冤罪の汚名を着せられている中国人の階級闘争の真の敵は国民党政府だった 」
> と指摘しているのです
>
> 50歳前後の中国人なら知っているだろうが、抗日戦争の教育映画は
> 「地雷戦」「鉄道遊撃隊」などでした。
> しかし当時の抗日映画の中には、「南京大虐殺」などと言うものは無かったのです
>
> 1960年代に毛沢東が2千万〜3千万人の国民を餓死させた事実は教科書には掲載せず、
> 日中国交正常化までは日本人のことを 「日本鬼子」 と罵倒していました
>
> 1972年9月に日中国交が結ばれ、中共政府は南京大虐殺記念館を建てて
> 「日本軍が30万人を虐殺した」 と宣伝したが、これは毛沢東の文化大革命で
> 7000万〜8000万人が中共に虐殺されたことをすり替えるためのものだった。
>
> 中共としては、毛沢東の文化大革命の10年間に、経済発展が停止して
> 国民生活は破綻していた。
>
> 最も生活が困っている時に援助の手を差し伸べたのが日本の政治家だったが、
> 日本社会党(現在の民主党)は数千万円を寄付し、そして南京大虐殺記念館は建てられた。
>
> 今も続く反日宣伝の虚構は、旧社会党の議員が援助したものであり、
> 日本人の敵は日本の議員だったという訳である。
>
> 1980年代には、中国では
> 「 日本人と中国人は二千年前から友好交流しており、歴史や文化は酷似している 」
> と教えられた。
> 日本からの経済援助、人材教育、技術支援なども活発化しており、
> 1982年には筆者・鳴霞も日本に永住する為に来日しました。
>
> 来日する前に勤務していた軍事会社の党支部書記は、
> 「 鳴霞よ、日本には共産党青年団の組織は無い。
> だからお前は共産党青年団宣伝幹部の職を辞さねばならない 」
> と言われました。
>
> また、
> 「 党はお前を一生懸命に勉強させ、軍事会社から資金を出して
> 市内の日本科学技術大学校に入学させ日本語を勉強させた。
> 日本に行ったら、日中友好事業を推進せよ 」
> と言われました。
>
> 私が中国にいる時に受けた全ての教育の中で、
> 「南京大虐殺」 「慰安婦」 「毒ガス」などは無かった。
>
> 1979年までの教科書、新聞、雑誌やマスコミ報道にもそれらは無かった。
>
> 日本からの資金援助で 「反日運動」 が推進されるようになった1984年には、
> 南京にいる老人を集めて 「南京大虐殺被害者」 を作り始めた。
> でっち上げた被害者は1756人に上った。
>
> それを根拠にして
> 「侵略日軍南京大屠殺史料」 「侵華日軍南京大屠殺当案」 「日軍侵華暴行南京大屠殺」
> などの本が一気に出版された。
> 毛沢東が政権にあった時、多くの本が出版されたが、南京大虐殺を書いたものは無い。
> と言われた。
>
動画: 月刊「中国」の鳴霞氏が語る中国の正体!
http://youtu.be/wAkH1_0gyEo
560x315
>
> 『月刊中国』(毎月1日発行)発行人編集;鳴霞
> FAX;0795-46-1880
> 編集長が満州人の鳴霞(めいか)氏。
>
>
[ 画像:蒋介石さんの証言_BMilw62CIAEz1EM.jpg (省略)
>
> *南京大虐殺 捏造の種明かし 引用終*
>
>
> 満州は中国の領土ではない
>
> 次に、満州のことをみてみましょう。
> 朝鮮半島の北隣、現在の中国人が 「中国東北部」 と呼ぶ地です。
> 満州というのは、元々中国に清朝をうち建てた満州族(女真族)の故郷です。
> 清朝は満州族が作った王朝であって、漢族は被支配民族だったのです。
> 中国で 「義和団の乱」(北清事変・1900年) が起きたとき、ロシアはそのどさくさにまぎれて、
> 満州を不法に占領し、そこに居すわってしまいました。
> 満州にロシアが居すわることは日本にとっても脅威でしたから、日本はロシアを追い出すため
に、
> 日露戦争を戦います。
>
> 日本は日露戦争に勝利し、満州からロシアを追放すると共に、満州を清朝に返してあげます。
> ジョンストン(満州国皇帝となった溥儀の家庭教師)の書いた『紫禁城の黄昏』には、
> 日本が満州を清朝に取り返してくれたときのことが詳しく書かれています。
> 日本はこのとき、満州における鉄道の権利と、遼東半島の租借権を獲得します。
> それは満州を取り返してくれたことに対する、清朝からのお礼の意味もありました。
> しかし、満州は当時、盗賊の跋扈する無法地帯であり、今日のイラクより治安の悪い所でした。
> そのため国際条約の元、権益を守るために日本の 「関東軍」 がそこに駐留していました。
> 今日でいう平和維持軍、守備軍です。
> この満州には、張作霖の一家が統治者として支配していました。
> 関東軍は当初、この統治者と共同路線を歩もうとします。
> しかし張は、盗賊あがりの暴君で、満州の民衆に凄まじいばかりの搾取を行なっていました。
> 盗賊がそのまま支配者となっていたのです。
> G・B・レーは、
> 「 張作霖一家が3000万民衆から搾取した収入は、
> 南京政府の収入より多くなくとも之に匹敵するものであった 」
> と書いています。
> さらに張の親子は、条約を無視して満州の経済権益を日本から奪い取ろうとするなど、
> 露骨な背信行為に出てきました。
> それを目の当たりにした関東軍は、軍事行動を起こし、張の軍隊を満州から駆逐します。
> これが満州事変です。
> これは日本軍の武力侵略の第一歩であると語られていますが、実際のところ
> 当時、日本軍による張の軍隊の駆逐をみた満州全土の民衆は、大喝采を叫び、
> 日本に感謝したのです。
> なぜなら張の軍閥政権は、
> 「 軍費を捻出するために広大肥沃な満州の土地を荒らし、
> 民衆の膏血の七、八割は軍費に充てられ、商民の三割はついに破産した 」
> と言われたほど、ひどい搾取を行なっていたからでした。
> 当時の諸外国の反応も、日本の行動はやむを得なかったとしました。
> アメリカ公使、ジョン・V・A・マクワリーは、張の行動は中国国民党政府が仕掛けたものであり、
> これは彼らが 『自ら招いた』 災いだ述べました。
> アメリカの新聞記者、ウォルター・リップマンも、
> 「 日本は激しい挑発に直面しながら、通常の国際的基準からすればきわめて忍耐強かった 」
> と記述しています。
> 当時のイギリス陸軍の元師も、
> 「 彼ら (日本) はひどい挑発を受けてきた。
> …彼らが満州で地歩を固めれば、それは共産主義の侵略に対する真の防壁となる 」
> と述べました。
>
> さて、そののちこの満州の地に、日本の指導によって 「満州国」 が造られました。
> 満州国の皇帝となったのは、清朝のラスト・エンペラーだった溥儀です。
> 清朝が滅亡したとき、日本の公使観に溥儀が逃げてきたのです。
> 清朝というのは、満州人が中国を支配した王朝でした。
> ですから満州は、清朝を支配した皇帝の故郷です。
> 溥儀は、自分の故郷の満州に帰り、そこに国を造りたいと言いました。
> それで日本は、その希望を受け、満州に満州国を建国したのです。
> 満州国では、皇帝が満州人であるだけでなく、大臣も一人残らず満州人か清朝の遺臣でした。
> 日本はその建国を指導したわけです。
> 満州国はまだ一人立ちできる状態ではありませんでしたから、日本はその建国を
> バックアップしました。
>
>
[ 画像:SinkyoMansyu.jpg (省略)
満州国の首都・新京
すばらしい国造りが進んだ
>
>
> 中国は、日本によるこの満州国建国も、「中国の領土への侵略だった」 と非難します。
> しかし実際のところ、かつて満州の地が中国の領土だったことは一度もありません。
> なぜなら、満州は万里の長城の外側(関外)の地なのです。
> かつて清朝打倒の革命運動を主導した孫文のビジョンにも、満州は含まれていませんでした。
> 孫文にとって、満州は中国ではなかったからです。
> 蒋介石も、
> 「 満州は中国の領土ではない 」
> と公言していた時期があります。
> ところがその後、蒋介石の政府も、毛沢東の中国共産党も、満州の経済発展をみると
> 一転して
> 「 満州は中国の領土だ 」
> と言い出しました。 しかし、全く厚顔無恥と言わざるを得ません。
> 満州が中国の領土である根拠など、どこにもないのです。
> 人々の中には、
> 「 満州は清朝の皇帝の故郷だったのなら、やはり満州は中国の領土ではないのか 」
> というかたもいるかもしれません。
> しかし、たとえば元の時代に、中国はモンゴルに支配されました。
> では、モンゴルは中国の領土かというと、そうではないでしょう。
> また、かつてインドネシアはオランダに支配されました。
> ではオランダは、インドネシアの領土かというと、そんなことは暴論ということになるでしょう。
> 同様に、満州は清朝を支配した満州人の故郷ですが、中国の領土ではないのです。
>
>
> 奇跡の国・満州国
>
> 清朝が滅びたとき、満州人の皇帝が満州に自分の国家を建てるのは、
> 極めて合理的なことでした。
> 満州国は、わずか13年間の王国でしたが、世界史上、奇跡の国でした。
> そこには建国以降、年間100万人を超える人々がなだれこみました。
> 人々は中国内地の略奪、虐殺、貧窮に満ちた生活を捨て、この平和な桃源郷を目指して
> 移住してきたのです。
> 1932年の建国時に約3000万人だった満州の人口は、
> 終戦時の1945年には、4500万人以上にも増えていました。
> 現在の日本の人口の約半分もの人々が、そこに暮らしていたのです。
> もし今日の中国人がいうように、当時の満州が略奪と虐殺の地獄だったなら、
> 絶対にこのような現象はみられなかったはずです。
> 満州国では 「五族協和」 をかかげていました。
> いろいろな民族の人々が、満州国の平和と繁栄にあこがれ、自分もそれにあやかりたいと
> 競ってやって来ました。
> そして彼らにより、この何もない原始的だった地が、きわめて短期間のうちに
> 近代的な法治国家、平和国家、一大重工業国家として成長したのです。
> しかし、
> 「 五族協和といっても、実際は日本が指導した国で、
> その中枢には日本人が大多数を占めていたではないか 」
> という批判もあるでしょう。
> けれども、これは満州国がひとり立ちする時までは、やむを得ないことでした。
> なぜなら日本人以外は、字も読めない人々がほとんどであり、
> 教育もなく、国家の理念すら理解しない人々だったからです。
> そうした中、日本がリーダー的な役割をすることが求められたのです。
> そして実際、満州国には、様々な民族が年間100万人以上なだれ込み、
> 共に国造りに励んだのです。
>
>
[ 画像:ShinkyoManshu2.jpg (省略)
満州国の新京・日本橋町。
満州国は、周囲からみると別天地であり様々な民族が年間100万人以上なだれ込み、
共に国造りに励んだ
>
>
> かつて盗賊的な軍閥に支配され、搾取にあえいでいたこの地は、満州国の建国によって
> 全く生まれ変わりました。
> 治安がみごとに確立され、つぎには近代的な司法制度、法律が完備され、
> 賄賂の悪習も追放されました。 政府の財政も確立されました。
> 貨幣の統一もわずか2年間で達成されました。
> 満州の総面積は、現在の日本の領土の約3倍あります。
> 日本人はその広大な国土に、鉄道、道路、港湾、空港のほか、
> 上下水道、治山治水、電力供給など、様々な国土開発計画を実施しました。
> 首都・新京は、じつに先進的な百万人都市として建設されました。
> 路面はすべて舗装され、東京にもなかった下水道が敷かれ、水洗便所が使用されました。
> また、以前は鍋・釜しか製造できなかった満州は、やがて自動車や飛行機まで製造する
> 一大産業国家に変身しました。
> 日本はそこに学校を建て、教育を普及させるとともに、病院を建て、
> 風土病、伝染病を駆逐していきました。
> もちろん、まだまだ改革しなければならないものは残っていましたし、
> 戦時経済のひっ迫した状況もありました。
> しかし全体的にみれば、そこは搾取や略奪のない、生命・財産の保護される平和郷であり、
> 周辺地域から比べれば非常に優れたアジア人の王道楽土となっていたのです。
> もし日本が敗戦することなく、満州国が存続していたら、満州国は間違いなく、
> その後のアジアにおいて巨大な発展を遂げ、アジアの平和と繁栄に寄与する重要な国家と
> なっていたでしょう。 まさにアジアのアメリカ合衆国となっていたに違いありません。
> しかし日本の敗戦後、満州国は中国の一部(東北部)とされました。
> そして日本がそこに残した遺産は、その後の中国の重工業の90%を支え、
> 中国の経済的基礎となりました。 戦後の中国は、この満州国の遺産で食い繋いだのです。
>
>
> 久保有政著
これが、日本が支那大陸でしてきたことの真実です。
同時に詳細な戦争被害の実態調査を行いましたが、
その訴えは賠償請求には生かされませんでした。
YAHOO!知恵袋 「日中戦争の真実 5 南京大虐殺捏造の嘘を暴く!」
http://note.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/n183068
《略》
>
> 共産党の毛沢東は、日中戦争および戦後の文化大革命、その他を通し、
> 中国人同胞を数千万人殺しました。
> 蒋介石も、先に述べたように数多くの民間人を犠牲にしています。
> 蒋介石といえば、戦後、連合国の会議において、列強による日本の分割統治に反対し、
> 天皇制存続を訴え、また日本への賠償請求権を放棄するなどをしてくれた人です。
> そこには、西安事件以来、彼が不本意にも共産党の意向にそって
> 日本軍と戦争をしたことに対する後悔もあったのかもしれません。
> 賠償請求権を放棄してくれたことは、日本にとってありがたいことではありました。
> しかし、中国を焦土にしたのは日本軍ではなく、蒋介石であり、また毛沢東なのですから、
> 日本に賠償請求する権利はもともと彼らにはないのです。
> また、日本は戦後台湾に莫大な資産をそのまま残し、蒋介石はそれを受け継ぎました。
> その結果、彼は賠償以上の莫大な富を手に入れているのです。
wikipedia「日本の戦争賠償と戦後補償」
http://ja.wikipedia.org/wiki/日本の戦争賠償と戦後補償 - 2.戦争賠償の形態
> 中間賠償
>
> 中間賠償とは、軍需工場の機械など日本国内の資本設備を撤去して、
> かつて日本が支配した国に移転、譲渡することによる戦争賠償である。
> 1945年11月に来日したアメリカ占領軍E. W. ポーレー率いる米賠償調査団によって行われた
> 最初期の対日賠償政策である。
> 工場設備による賠償は後の平和条約による最終的な賠償ではないという観点から
> 「中間賠償」と呼ばれた。
> また、中間賠償にはまた日本の産業的武装解除も兼ねて行われたという側面もある。
> 大蔵省によると、1950年5月までに計1億6515万8839円(昭和14年価格)に相当する
> 43,919台の工場機械などが梱包撤去された。
> 受け取り国の内訳は中国54.1%、オランダ(東インド)11.5%、フィリピン19%、
> イギリス(ビルマ、マライ)15.4%である[2]。
>
>
> 在外資産による賠償
>
> 在外資産による賠償とは、日本政府や企業、個人が海外に持っていた公私の在外資産を
> 提供することによる賠償である。
> サンフランシスコ平和条約14条a項2に基づく:
>
> 各連合国は、次に掲げるもののすべての財産、権利及び利益で
> この条約の最初の効力発生のときにその管轄の下にあるものを
> 差し押さえ、留置し、清算し、その他何らかの方法で処分する権利を有する。
> (a)日本国及び日本国民、
> (b)日本国又は日本国民の代理者又は代行者、並びに
> (c)日本国又は日本国民が所有し、又は支配した団体。
>
> 中間賠償と同様に、ヴェルサイユ条約でドイツに課せられた膨大な賠償金が
> ドイツを再び戦争へと向かわせたことへの反省から、できる限り在外資産を没収する形での
> 賠償をさせようという方針がとられた
> ( 第二次世界大戦後のドイツにも同様の措置がとられている )。
> 例えば中国 (中華民国) は賠償金請求権を放棄しているが、
> 在外資産による賠償は受けている:
>
> 日本国代表:
> 私は、中華民国は本条約の議定書第一項(b)において述べられているように、
> 役務賠償を自発的に放棄したので、サン・フランシスコ条約第14条(a)に基き
> 同国に及ぼされるべき唯一の残りの利益は、同条約第十四条(a)2に規定された
> 日本国の在外資産であると了解する。 その通りであるか。
>
> 中華民国代表:
> 然り、その通りである。
>
> ( 日華平和条約に関する合意された議事録 )
>
> なお、中国(中華民国及び中華人民共和国)は
> サンフランシスコ平和条約の締約国ではないが、同条約第21条の規定により、
> 第14条a項2および第10条の利益を受けるとされた:
>
> 第十条
> 日本国は、千九百一年九月七日に北京で署名された最終議定書並びに
> これを補足するすべての議定書、書簡及び文書の規定から生ずる
> すべての利益及び特権を含む中国におけるすべての特殊の権利及び利益を放棄し、
> 且つ、前記の議定書、附属書、書簡及び文書を日本国に関して廃棄することに同意する。
>
> これにより中華人民共和国は旧大日本帝国政府と日本国民が
> 中国大陸 (東部内モンゴルおよび満州含む) に有していた財産、鉱業権、鉄道権益などを
> 得たとされる。
当時の年間国家予算の2倍以上にも及ぶ大金を投じて作られたインフラをGETするという形で、中華
人民共和国は賠償を得ています。 賠償の対象を個別にリストアップして、その総額がインフラの評価
額と同額であったというならともかく、十羽一絡げにコミコミ価格としての賠償額をインフラで相殺したの
です。 したがって、具体的な金額は抜きにして、慰安婦問題等の戦争被害も全て、インフラと相殺した
賠償額に含まれています。
たとえば、物損事故で保険屋のアジャスターが査定した修理代が払われた後になって、
「 実はあの時に気付かなかった破損個所があった。 その分の修理代を寄越せ 」
と主張しても通りません。
それと同様に、
「 あの時の賠償額に慰安婦問題等の戦争被害は含まれていない。 別途寄越せ 」
も通りません。 当たり前の話です。
性暴力被害は国家、民族、村落、家族の“恥”とみなす意識が残り、
被害女性たちは沈黙を強いられました。
おいおい、『 Q&A - 2 慰安所における実態 - 10 証言は矛盾だらけ?』では
90年代になり、女性たちが沈黙を破り自分の身に起きたことを語り始めたのは、
ハーマンによれば「回復過程」でもあるのです。
自分の体験を危害を加えずに聞いてくれる人がいるという環境の変化は、
被害回復への扉を開く1つのきっかけになったといえます。
と、終戦から1990年代初頭 ( 奇しくも日本のサヨクが従軍慰安婦問題を “ 発明 ” した時期と被りま
すw ) まで、自 称元従軍慰安婦婆サマがクチを噤んでいたのは P S T D に 罹 っ て い た か ら とい
う理由をこじつけたのに、『 解決編 4 アジア各国政府見解 −4 中国政府の反応 』 だと、
性暴力被害は国家、民族、村落、家族の“恥”とみなす意識が残り、
被害女性たちは沈黙を強いられました。
かよ。
「 バレないように嘘を吐き通すには賢い頭脳が必要 」 とは良く聞くが本当だなw
まぁ、朝鮮半島に於いては
終戦から1990年代初頭まで、自 称元従軍慰安婦婆サマがクチを噤んでいたのは
PSTDに罹っていたから
で、支那大陸に於いては
性暴力被害は国家、民族、村落、家族の“恥”とみなす意識が残り、
被害女性たちは沈黙を強いられました。
ということにしようか。
だとしても、↓これ等↓はどうすんの?
人身売買から性奴隷まで。売られた赤ん坊が辿る7つの末路
http://www.bllackz.com/2011/09/blog-post_30.html
> 子供たちが売られている。
> 世界中のあちこちで当事者が逮捕されているが、
> 実態が明るみになっているとはとても言えない状況だ。 すべてが氷山の一角である。
>
> 売る側も、買った側も決して口を割らないし、売買の際には身分を隠す。
> そして、売られている当事者の子供たちは世の中がどうなっているのか分からないから
> 声を上げることもない。
> 人身売買の目的が臓器摘出であれば、子供たちは声を上げる前に死ぬ。
>
>
> 女性・子供の人身売買、中国で4,449件
>
> 全世界でそういった人身売買が横行しており、実はそれが増えていきそうだと言われている。
>
> なぜ増えるのか。
> いくつか理由があるが、もっとも大きな理由は貧困国での人口が増加していることと、
> 格差がさらに広がっていることである。
>
> さらに、人身売買業者の国際的ネットワークが密になったことが上げられている。
>
> 臓器が売れるものだというのは人身売買業者では当たり前の話になっているので、
> 20年も前から臓器売買目的の売買が格段に増えているのである。
>
> 現在、もっとも臓器売買の闇マーケットが大きいのは中国である。
>
> 中国では政府が臓器売買に関与したと思われる法輪功学習者の臓器摘出が
> 2006年に問題視されてアメリカを巻き込んだ騒動になったことがあった。
>
> しかし、その陰で1年間に5,000件以上もの子供の拉致・誘拐・売買も並行して起きている。
> 2005年2月には以下のような記事が新聞にも掲載されていた。
>
> ▼ 女性・子供の人身売買、中国で昨年4449件摘発
>
> 女性や子供の誘拐・人身売買が頻発している中国で、
> 昨年摘発された事件が計4,449件に上り、
> 8,949人(女性5,461人、子供3,488人)が保護されたことが明らかになった。
> 国営新華社通信が15日、警察当局者の話として伝えた。
>
> 中国では伝統的に農村部などで売買婚の風習があるが、
> 近年は犯罪組織による人身売買の“ビジネス化”と広域化が顕著になっている。
>
> 子供の人身売買では、組織は「調達」「移送」「売却」を役割分担し、
> 大規模な人身売買ネットワークを形成。
> 略取の際に睡眠薬や麻酔を使用したり、親を殺害したりするケースもあるほか、
> 移送時に母乳の出る母親役を使って親子を偽装させるなど手口の凶悪化、巧妙化も目立つ。
>
> 主な標的は、地方から都市への出稼ぎ労働者(民工)の子供たち。
> 1億人とされる民工ら流動人口のうち、18歳以下は約1982万人。
> 学校に通えない子供が多く、両親が共働きなどのため十分な保護を受けられないのが
> 実情だ。
>
> ―――――
>
> ここで考えなければならないのは、「摘発されたものが4,449件」だということである。
> 摘発されなかったものはさらに多い。
> そして、人身売買については、2005年から何ら改善されていない。
>
> 子供の誘拐が年間で約1万5,000件も起きていることを見ても分かる。
> 中国は、世界最大の人身売買国家である可能性も高い。
> 世界最大の臓器売買マーケットはどこか。 それも中国である。
>
> ▼ 中国、人身売買で600人逮捕、子ども178人保護
> 2011年12月08日
>
> 中国当局は7日、国内10省で人身売買組織の一斉摘発を行い、608人を逮捕、
> 子ども178人を保護したと発表した。
>
> 「人身売買撲滅作戦における過去最大の勝利」と宣言した中国公安省の声明によると、
> 5月に四川(Sichuan)省で、また8月に福建(Fujian)省で異なる人身売買組織の
> 存在情報を得た警察当局が綿密な捜査を進め、11月30日から警察官5000人を動員して
> 大規模な一斉摘発を実施した。
> 保護した子どもたちは現在、福祉施設に預けられているという。
>
> ―――――
>
>
> 誘拐された子供たちの末路
>
> 中国では誘拐は問答無用の死刑だ。
> しかし、それにも関わらずまったく誘拐事件が減少することがない。
>
> 誘拐するということは、子供に需要があるということだが、
> 買った人は子供をどのように「利用」するのだろうか。
>
> 世界中を俯瞰して誘拐された子供たちの末路を見ていくと、だいたい以下のような動機に
> 収斂されている。 売られた赤ん坊が辿る7つの末路だ。
>
> ・ 物乞いさせて金を稼がせる。
> ・ 肉体労働に従事させる。
> ・ 犯罪(強盗・窃盗)の手先にさせる。
> ・ 売春させる。児童ポルノを作る。
> ・ 性奴隷にする。
> ・ 臓器を売る。
> ・ 子供に恵まれない家庭が育てる。
>
《中略》
>
>
> セックス・スレイブの供給先
>
> 女の子であれば、売春を強要したりセックス・スレイブ(性奴隷)にするケースもある。
>
> ネパールの女の子が誘拐された場合、そのほとんどが売春絡みである。
> インドの売春地帯はどこでもネパールから来た売春女性でいっぱいだ。
>
> デリーでも、ムンバイでも、コルカタでも事情は変わらない。
> コルカタの荒んだ売春地帯で精神を病んだ女性の姿がいまだに私の目に焼き付いている。
>
> 精神を病んでも売春させられているのである。
>
> 中国では映画「盲山」が、結果的に性奴隷のようにされた女性を描いていた。
>
> 最近ではハイチの孤児(みなしご)が国外に出されて、ベネズエラや欧米の金持ちが
> 性奴隷として手に入れたと言われている。
>
> ハイチやグァテマラの女の子は昔からセックス・スレイブの供給先として
> 知る人ぞ知るメッカである。
>
《中略》
>
> 子供たちが幸せになれるのかどうかは引き取られてみないと分からない。
> もし、邪悪な世界だったとしても、子供たちには逃げる術(すべ)はない。
>
> 残酷な人たちと、残酷な世界に入り込んだとき、子供たちは静かに消え去っていく。
>
>
> もし、仮に子供たちが臓器売買の対象になったらどうなるのか。
> 子供たちは生きたまま臓器を取られることになる。
>
> 肺、心臓、腎臓、肝臓、脾臓、小腸、角膜。あらゆる臓器が売買の対象になる。
> そして、金を持った子供が生き残り、売られた子供たちは闇から闇へと処分される。
>
《以下略》
2007-05-28 ひろゆきの特亜関連情報日記
農村女性残酷物語〜生きて売られ、死んでもなお売られ続けるAdd Star
http://d.hatena.ne.jp/hiroyki/20070528/1180323561
> 2年前、北京郊外の平谷区の民族村と呼ばれる村落を訪れた。
> 桃の花の名所だが、実は農作物のほとんど実らぬ寒村で、嫁の来手(きて)がない。
> だからベトナム国境あたりの少数民族の村から嫁を買う。
> 北京なのにミャオ族やナシ族の女たちが暮らすので民族村。
>
> そこで出会ったミャオ族の王美芬さん(当時37歳)は19のとき、8つ年上の実兄に
> 5,000元(約8万円)で売られてきた。
> 「 好きな人がいたのに、北京で働き口があるとだまされて連れてこられた 」。
> 村に着いてだまされたと知り泣いて抵抗すると、兄は棍棒(こんぼう)で折檻(せっかん)した。
> 兄は受け取った金で故郷に家を構え、意中の女性と結婚した。
>
> 「 10歳年上の夫とは方言の違いで、当初は言葉も通じなかった。
> 結婚2年後、子供が生まれてもう逃げられないとあきらめた 」。
> 昔の恋人は、王さんを待ってまだ独身という。
> 語る王さんの涙は止まらず、ぽたぽたとズボンの上にぬれたシミをつくり続けた。
>
>
> ■ 今も続く女性売買
>
> 中国の女に生まれるということはなんとむごいことかと、そのときつくづくと思ったが、
> やがてこんなのは序の口と知る。
>
> 昨年暮れの事件だ。
> 陝西省延安県の村で結婚仲介者が知的障害の女性(20)を
> 家族から2,000元(約3万2,000円)で買った。
> 仲介者は別の村の男性に若く健康な嫁として売ったのだが、後で障害がばれて返された。
> もてあました仲介者は女性を殺害、遺体を「陰婚」仲介組織に転売した。
>
> 陰婚とは、未婚男性が亡くなったとき、あの世の伴侶(はんりょ)として
> 墓に未婚女性の遺体を一緒に埋葬する農村の俗習だ。
> 陰婚用の遺体は遺族が売ることも、病院の遺体安置室や墓から横流しされたり、
> 盗まれたりすることもあるらしいが、陝西省や山西省などで炭坑事故による
> 若い男性の死が急増し陰婚用遺体が値上がりしているため、最近では若い女性を狙った
> 連続殺人事件も起きている。
>
> この事件も「陰婚」仲介地下組織の摘発によって明らかになった。
> 地方紙にひっそり載った記事によれば、事件解決後も家族は
> 彼女の遺体を引き取ろうとしなかった。
> 中国の女は生きて売られ、死んでもなお売られ続ける。
>
>
> ■ 一人政策に暴動
>
> 先週末、広西チワン族自治区博白県の6カ村で300〜3,000人規模の暴動が
> 相次いで発生、役場などが焼き討ちされた。
> 新華社によれば人口抑制政策・一人っ子政策徹底への反発が原因で28人が逮捕された。
> 香港消息筋によれば、博白県では今年の旧正月以降、政策違反の夫婦には
> 数万元の罰金徴収が徹底されたうえ、1万7,000人以上の女性たちが次々と強制堕胎、
> 強制避妊手術を受けさせられたという。
>
> こんなふうに中国女性の境遇に思いをはせてしまったのは、
> 最近、中国政府が全国幹部の40%が女性だといった統計を発表したからだ。
> 確かに昨年の長者番付1位は女性社長で、呉儀副首相はじめ女性の社会進出は
> 日本以上に目立つ。 だが、貧富の差同様、女性の境遇の格差も開く一方だ。
> 男尊女卑思想が深く染みついたこの国で、人口抑制政策の犠牲は
> 農村女性にしわ寄せがきている。
>
> その結果、最新の統計では中国の男女出生比率は119対100にまで拡大、
> 2020年には4000万人の男性が結婚にあぶれるそうだ。
> 政府は慌てているが、それを聞いて私は少しほっとする。
> 不幸な女が多少は生まれずにすんだのかと。
> 男たちが多少女性の大切さを思い知るきっかけになるかももしれないと。
>
>
> ソース・iza
> http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/world/china/53879/
2011/02/08(火) サーチナ
誘拐後、硫酸などで障害者にして物乞いさせる…中国・児童虐待
http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2011&d=0208&f=national_0208_081.shtml
> 中国で、誘拐されたり貧困のため親に売られた児童への関心が高まった。
> 中国社会科学院農村発展研究所の于建〓教授が自らが児童解放のための運動を始め、
> 誘拐された4人を発見したことを明らかにしたことなどがきっかけだ。
> 中国ではこれまでも誘拐や児童売買が問題視されていが、于教授の動きに刺激された
> 政府・公安部も改めて問題解決のため本格的に動きはじめた。 中国新聞社などが報じた。
> (〓は山へんに「榮」)
>
> 誘拐された児童の多くは、「物乞い」をさせられている。
> 安徽省阜陽市の農村部には、古くから児童を使う「物乞い集団」の根拠地があるという。
> かなりの数の児童が「憐れみを誘う」ために、刃物や硫酸などの薬品で、
> 障害者にさせられている。
>
> 物乞いの児童には毎日の“ノルマ”が課せられる。
> 稼ぎが悪いと殴る蹴るなどで痛めつけられるので、体を傷つけることを受け入れる児童もいる。
> 「集団」には、自分も元は誘拐された児童だった大人も多い。
>
> これまで、「物乞い集団」の大人が一緒にいる児童を「自分の子だ」と主張した場合、
> 警察は介入しにくかった。
> 于教授は、街頭で撮影した物乞いをしている児童の写真を大量にインターネットで発表し、
> 「 心あたりがある人は、連絡してほしい 」
> などと呼びかけた。 他のユーザーも于教授に協力。
> 警察も 「児童解放のための写真撮影運動」 を支持し、捜査の結果、
> これまでに誘拐された児童4人を発見したという。
>
> (編集担当:如月隼人)
おいおいw
1931年の満州事変から日本の敗戦までの15年に及ぶ日中戦争が終わった後、
中国政府は日本軍による強かんや「慰安婦」犯罪を戦犯裁判で裁き、
実際に明らかになった犯罪も少なからずありました。
どころか、今リアルタイムに狭義の強制連行で中国国内に被害者が出捲くっているじゃないか。
そして、農村部の強制嫁問題に至ってはこの有り様だ。
2007/11/19 北京東京趣聞博客(ぺきん・とうきょうこねたぶろぐ)
中国の女性人身売買
http://fukushimak.iza.ne.jp/blog/entry/395966/
《略》
>
> 最近、李楊監督にインタビューした。 中国映画好きなら、知っているかもしれない。
> 2003年ベルリン国際映画祭で銀熊賞を受賞した「盲井」を作った監督だ。
> (MSNでは金熊賞になっているけれど、銀熊賞だよ。 紙の新聞は治っているはず)。
> 「盲井」は、ヤミ炭坑の中で行われる殺人をドキュメンタリータッチで撮影、中国の暗部を
> えぐった問題作ながら、あまりのありのままの中国だったため、当局の逆鱗に触れ、
> 上映禁止になった作品。
> この監督は、06年まで中国国内での映画制作を禁止される処分を受けていた。
>
《略》
>
> ■ 李楊監督インタビュー:
>
> 根強い女性蔑視、差別。女性売買の実態を映画で告発!
> 中国の女性に生まれるくらいなら、私は貝に生まれた方が幸せだと思う。
>
> 福島:女性の誘拐・人身売買問題を取りあげようと思ったのはどうして?
>
> 李楊:99年ごろからこのテーマを取りたいとおもっていたよ。
> 99年当時、私はドイツで暮らしていて、親を訪ねて中国に一時帰国した。
> そのとき、新聞で、誘拐されて農村に嫁として売られた女性が、
> 夫の暴力に耐えきれず、夫を殺して逃げてきてのに、逆に殺人犯として捕まって、
> 銃殺刑に処された事件が報道されていた。
> 私は思ったね、なんて悲惨な事件なんだ、と。
> 彼女はきっと本当は善良な女性だったろう。
> それが誘拐され、だれも彼女を助けようとせず、それで彼女はこんな風に
> (殺人犯)になってしまったんだ。 以来、ずっとこの映画を撮りたかったよ。
> 「盲井」を撮ったあと、当局から国内での映画制作禁止処分を受けて、
> 06年まで映画を撮れなかったから、このテーマを取材し温めてきたんだ。
> 私は、これは社会問題を反映し、改革解放以来の中国人の道徳観、人間性の変化を
> 観衆に問いかけることができると思ったんだ。
>
> 福島:( まったく、誘拐されて売られた被害者女性が夫を殺したからといって
> 死刑になるなんて、中国の女性の人権って、う〜。)
> 同じ女性として胸がつまります。
> きっと同じような境遇の女性がいっぱいいるんでしょうね。
> 李監督は、誘拐され農村に売られた女性を何人くらい取材したんですか?
>
> 李楊:30人以上かな。 それぞれに悲惨なドラマがあるよ。
> 被害者はたいてい農村の娘でね、あるいは地方都市の娘。
> 都市といっても、ほとんど農村かな。
> 都会に仕事があるから、といって騙してつれてきて売る。
> ある娘は自分の恋人に騙されて売られたよ。
> その恋人は麻薬中毒でお金が必要だからと彼女をうってしまったんだ。
> 親友に騙されたりね。
> 遠くまでつれてこられて自力で帰ってこれない場所につれてこられるんだ。
>
> 福島:今もそんな女性、増え続けているですか。
>
> 李楊:つい最近も北京の娘が騙されて山西省の農村に売られてて135日間監禁されて、
> 最近やっと救出された事件があったね。
> 中国の法律では、(誘拐・仲買、販売者は厳罰に処されるが)女性を買った農民は
> 処罰されない。 中国では買った方は、罪に問われないんだ。
> この法律の不備がある限り、女性の人身売買はなくならいと思う。
> 人は豚や鶏じゃないんだから、売買なんでできないんだよ。
> 買った方の刑事責任を問わなくちゃ。
>
> 福島:( 一応、法律上「収買誘拐婦女罪」というのがあって、買った方を裁く法律はある。
> だがこれまでの裁判をふりかえると、いわゆる売春に従事させる目的で買った人は、
> 懲役1年〜11年の罪には問われているが、確かに農民が嫁を買うことで、
> 裁かれているケースはちょっと見あたらない。
> おそらく、買った方は、誘拐された女性と知らなかった、
> お金は女性の紹介料として払ったと主張すれば、それを覆すだけの証言は
> 集まらないんだろう。 あるいは10年一緒に暮らしていたりすれば、なおさらだろう。
> ご近所も地元警察も、その事実を黙認していたわけだし。)
>
> 李楊:誘拐されて売られた女性は最低10年は帰ってこれないんだ。
> 90年代初め、つまり90年から95年が女性の誘拐・人身売買のピークだったかな。
> この間に公安当局に救出された女性は8万8,000人以上。
> もちろん、救出されない女性の方がずっと多い。
>
> 福島:( 公安省によれば2001年〜03年に救出された児童・女性は、4万2,000人。
> 21世紀に入っても、あまり状況は改善されていない )。
> 背景はなんでしょう。
>
> 李楊:90〜95年のころは、農村には電話もなかったし、携帯電話だって普及していなかったし、
> 騙されて遠くにつれてこられた日には連絡のとりようもなかったからね。
> 17、18歳に売られて10年もたてば28歳、子供がひとり、二人いれば、
> もう彼女の生活も変わってしまい、戻ることもできなくなるし。
> 今も人身売買事件があとをたたないのは、多くの社会背景があるね。
> 多くの農村では嫁の来手がない。
> そういう辺境の地というのは、誰もが嫁に行きたがらない貧しい場所だから、
> 貧困が原因ともいえる。
> そういうところでは、まともなルートで嫁をとるのはすごくお金がかかる。
> ならいっそ、買った方が安い。
>
> 李楊:また、中国の人口抑制計画「一人っ子政策」の影響もあるだろう。
> この政策は、各家庭に子供はたったひとりだけ、と決めている。
> みんな男の子がほしい、女の子はいらない。
> だから男女の出産比率が、女児100人に対して、男児が120人以上という
> アンバランスがおきている。 女児100人に対して男児が130人という地方もある。
> 結婚年齢にたっしたとき多くの男性に、相手がいないわけだ。
>
> 福島:( 一番最近の報道だと、女児100人に対し、男児122.85人で
> 20年後には結婚適齢期の男性3700万人が相手をみつけられない )
>
> 李楊:もうひとつ、法律の問題だ。
> 49年から80年代まで、女性の誘拐売買はなかったようだよ。
> うん、83年前は少なくとも無かった。
> 共産党が社会全体をコントロールしていたから、法律が非常に厳格だったんだ。
> 今は誰も法律を無視している。
>
> 福島:( 確かに文革時代は、女子トイレをのぞくだけでリンチで殺されていた。
> もっとも、情報統制が今以上に厳しかったという面もありそう。
> 童養ソク(養女を買って嫁・労働力として養う習俗)はあったと思うが。
> ま、あれは、誘拐というより、親が売っていたのだろうが )
>
> 李楊:あと地方の保護主義もある。
> 地方官僚は、女性の誘拐売買の実態を見て見ぬふりをしているね。
> だから私は映画のタイトルを「盲山」としたんだ。
> 盲というのは、見えないということだ。 心の盲目だね。
> 改革開放以降、人の情は冷え切ってしまった。
> むかしはみんなお金をもっていなかったが、今はみんな金金金の拝金主義。
> これが人間関係を金銭関係に変えてしまった。
> 女性の誘拐売買の問題は、改革開放以降に出現した道徳上の問題が大きいと思う。
>
> 福島:誘拐されて農村に嫁として売られた先で、夫や家族との間に愛情は育つんでしょうか。
>
> 李楊:育つわけないじゃないか。 愛情なんて何もない。
> 売られると、レイプされ、暴力をふるわれ、徹底的に反抗する気力をうばうんだ。
> どこに愛情がある?
> 女性たちは故郷に帰りたいと願うが、そうやってレイプされて
> 言うことをきかされた女性は、(伝統的な男尊女卑や貞操観がじゃまして?)
> たとえ故郷に戻れる状況になっても、帰るに帰れない。
>
> 福島:実は、私以前に、女性の売り買いをする河南省の女衒(女性売買の仲介人)を
> 取材したことがあるんですが、彼がいうには、売られてきた女性を徹底的に
> レイプするそうです。
> 何人もで何日もかけてレイプすると、恥ずかしくてもうふるさとには戻れないし、
> 親もそんな娘が帰ってきてはメンツがつぶれるので、望まないそうです。
> その女衒は「俺は3,000人の女をレイプした」とか言ってました。
> 非常に人なつこい、明るい笑顔で。
>
> 李楊:その3,000人レイプしたというのは、ほら吹いていると思うよ。
> 一日毎日ひとりレイプしても10年くらいかかるだろう?
>
> 福島:私も、そう思った。
> ( たしか、彼まだ28歳だった。
> でも、県の公安局長の娘を誘惑して結婚していたから、怖い者なし。
> 奥さんにも会ったが、ドメスティックバイオレンスのせいで、顔に傷跡のある
> 典型的な薄幸美人タイプだった。
> こいつ絶対エイズにかかっているぞ、死んじまえ、とか思いながら、
> 平静よそおって取材するのしんどかった〜)。
> ところで、映画はどんなストーリー?
>
> 李楊:誘拐され農村に売られた四川省の女子大学生がヒロインだ。
> 彼女は多くの誘拐された女性のように、故郷に戻ることをあきらめなくて、
> 何度も脱走を試みるんだ。 結末は映画をみてね。
>
> 福島:誘拐され売られる女性には大学生もいるんですか。
>
> 李楊:もちろん、大学生も博士もいたよ。 でも待ち受ける運命は同じだ。
> 知識があろうとなかろうと関係ない。
>
> 福島:でも法律の知識があれば、逃げ出して裁判に訴えることもできますよね。
>
> 李楊:たいていは、無理だね。
> 売買人はたいていニセの身分証明書で、名前もうそだ。
> 10年たってから逃げ出して、相手を訴えることは無理だ。
> 逃げてきた人間にも人としての尊厳がある。
> 夫にいじめられ、人にさげすまれ続けて、傷ついている人に、
> 裁判所にいけば、とはいえないよ。
>
> 李楊:重要な問題は、人間性、人の醜さ、だろう。
> 政府官僚は汚職にまみれ、警察も見て見ぬふり。
>
> 福島:それが映画のテーマですね。
>
> 李楊:中国人の人間性、仁の欠如。
> そうそう、最近こういう事件もあったね。
> 南京市でおばあさんが車にぶつかってこけて足を折った。
> 通りがかりの親切な人が、同情して彼女を病院につれていってあげたら、
> そのおばあさんは、その親切な人が自分にぶつかったから足を折った、と
> 裁判所に訴えて、その人、結局治療費の半額を払わされた。
> 親切な人は自分が彼女にぶつかったのではない、と主張しても証明できない。
> 裁判官は親切な人に言ったそうだ。
> 「 君がぶつかった犯人ではないなら、どうして彼女に親切にしたんだ?」。
> 中国の道徳状況は、すべてがこの調子だ。
>
> 福島:うわ〜、中国の地方都市でありがちな話です。
> へたに人に親切にすればバカをみる、とみんなが思っている。
> これが他人への無関心につながって、犯罪をゆるしているんですね。
> 日本も同じようなもんかもしれないけれど。
>
> 李楊:農村じゃ、誰かが豚を飼えば、村中の人が知っている。
> 生きた人を買って、村人や地元役人、警察が知らないわけないじゃないか。
> 誰も助けてくれない、誰も関心をもってくれない。
> そういう絶望的な中国社会を描いたつもりだ。
>
>
> 福島:ところで、よく中国の検閲通りましたね。
>
> 李楊:何度も何度もやり直させられたよ。
> 君、中国の検閲制度の厳しさをしっているかい?
> 結局国内版は、政府への批判的な部分は全部カットせざるを得なかった。
> あと結末も違うよ。 国内版はハッピー・エンディング。
>
> 福島:( きっと、カンヌで公開された国際版は
> 共産党の官僚や警察がグルの悪者で、国内版は共産党や警察が正義の味方で、
> ヒロインを救出して大団円なんだと想像。 観ていないからわからないけれど )
> でも、いずれにしても、あなたの映画が国内で上映許可がでたのはすばらしいこと。
>
> 李楊:中国人に、中国社会が善良さを失ったのはなぜか、仁を失ったのはなぜか。
> そういうことを考えてほしいね。
>
> (以上)
>
> ★ ( ) でくくっているのは、福島の内心の声です。
>
《以下略》
慰安婦問題なんてのは、裏付けが一切なく、クチを開く度に内容がコロコロ変わる自称元従軍慰安
婦婆サマの証言以外に何の証拠もありません。 常識的に考えれば、被害妄想を患った精神患者の
妄言以外の何物でもありません。 そんな慰安婦問題に割く時間があるなら、やるべきことが他にあり
ます。
労力を注ぎ込む先が完全に間違っているぞ。
1990年代初頭、アジア各国で次々と「慰安婦」被害者が名乗り出るようになり、
1999年09月25日 国際派日本人養成講座
No.106 「従軍慰安婦」問題(上)〜日韓友好に打ち込まれた楔
http://blog.jog-net.jp/201309/article_6.html
《略》
>
> ■ 2.慰安婦問題の経緯 ■
>
> まず慰安婦問題の経緯を時系列的に見渡しておこう。
>
> 1) 昭和58(1983)年、吉田清治が、著書「私の戦争犯罪・朝鮮人連行強制記録」の中で、
> 昭和18年に軍の命令で「挺身隊」として、韓国斉州島で女性を「強制連行」して
> 慰安婦にしたという「体験」を発表。
> 朝日新聞は、これを平成3('91)年から翌年にかけ、4回にわたり、報道。
>
> 2) 平成3年8月11日、朝日新聞は、「女子挺身隊」の名で戦場に連行され、
> 売春行為を強いられた「朝鮮人従軍慰安婦」の一人が名乗り出た、と報道。
>
> 3) 同4年1月11日、朝日新聞は、一面トップで「慰安所、軍関与示す資料」、
> 「部隊に設置指示 募集含め統制・監督」と報道。
> この直後の16日から訪韓した宮沢首相は首脳会談で8回も謝罪を繰り返し、
> 「真相究明」を約束。
>
> 4) 同5年8月4日、河野官房長官談話、政府調査の結果、
> 「 甘言、弾圧による等、本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあり、
> 更に、官憲等が直接に荷担したこともあった 」
> と発表。
>
《以下略》
朝日新聞が火を点け、売国議員がこれに金の匂いを付ける事に因って、自称元従軍慰安婦婆サマ
が大勢誕生することになっただけです。
そして、( このサイトをご覧に成られる様な貴兄におかれましては重々ご承知の通り ) 従軍慰安婦問
題の根幹であった『吉田清治の慰安婦狩り』は、早々に作り話だとバレてしまいます。
1999年09月25日 国際派日本人養成講座
No.106 「従軍慰安婦」問題(上)〜日韓友好に打ち込まれた楔
http://blog.jog-net.jp/201309/article_6.html
《略》
>
> ■ 3.吉田清治の慰安婦狩り ■
>
> まず1)、吉田清治の「私の戦争犯罪・朝鮮人連行強制記録」では、
> 韓国斉州島での、慰安婦強制連行を次のように、描写している。
>
> ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――
>
> 若くて大柄な娘に、山田が「前へ出ろ」とどなった。
> 娘がおびえてそばの年取った女にしがみつくと、山田は・・・台をまわって行って
> 娘の腕をつかんで引きずりだした・・・女工たちはいっせいに叫び声を上げ、
> 泣き声を上げていた。
> 隊員たちは若い娘を引きずり出すのにてこずって、木剣を使い、
> 背中や尻を打ちすえていた。
> ・・・女工の中から慰安婦に徴用した娘は十六人であった。
>
> ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――
>
> 当時は、戦地での強姦事件を防ぐために、公娼業者に戦地で開業させていた。
> 戦地であるから、業者の指名、戦地への移動、営業状態の監督などは、
> 軍の関与が当然あった。
> これらは当時、合法であった公娼制度の戦地への延長で、特に問題はない。
>
> 「従軍慰安婦」問題とは、本人の意思に反した「強制連行を、軍が組織的に行ったか、
> どうか」の問題なのである。
> したがって、吉田の言うような強制連行が事実であったら、これは日本の国家的犯罪となる。
>
>
> ■ 4.日本人の悪徳ぶりを示す軽薄な商魂の産物 ■
>
> 吉田の記述は済州島の城山浦にある貝ボタン工場という設定だが、
> この記事に疑問をもった済州新聞の許栄善記者が現地で調査し、
> 以下のような記事を書いている。
>
> ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――
>
> 島民たちは「でたらめだ」と一蹴し、
> この著述の信想性に対して強く疑問を投げかけている。
> 城山浦の住民のチョン・オクタン(85歳の女性)は
> 「 250余の家しかないこの村で、15人も徴用したとすれば大事件であるが、
> 当時はそんな事実はなかった 」
> と語った。
>
> 郷土史家の金奉玉は
> 「 1983年に日本語版が出てから、何年かの間追跡調査した結果、
> 事実でないことを発見した。
> この本は日本人の悪徳ぶりを示す軽薄な商魂の産物と思われる 」
> と憤慨している。
>
> ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――
>
> 現地調査を行った秦郁彦日大教授は、許栄善女史から、
> 「 何が目的でこんな作り話を書くのでしょうか 」
> と聞かれ、答えに窮したという。[1,p232]
>
> この吉田清治を、朝日新聞は、宮沢首相の訪韓前後1年の間に、
> 4回も紙面に登場させたのだが、秦教授の調査の後は、ぷっつりと起用をやめた。
> 今日では、慰安婦問題の中心的糾弾者である吉見義明中央大教授すら、
> 吉田清治の著作は採用しなくなっている。
このように、『吉田清治の慰安婦狩り』が作り話だとバレた時点で、従軍慰安婦問題という物は霧散し
て然るべきだったのです。
自称喧嘩番長の武勇伝が全部作り話だとバレたら、その自称喧嘩番長がケガを負わせた被害者は
居ない事に成ります。 「 俺は、その喧嘩番長に殴られて大ケガを負った。 治療費と慰謝料を寄越
せ 」 と言った所で、武勇伝が作り話とバレた後では誰も相手になんかしません。
ところが、何故か従軍慰安婦問題に於いては被害者が存在して、謝罪と賠償を求めているのです。
奇妙奇天烈ですね。 バカバカしさの極みだと思います。
中国政府は1992年に万愛花さんが 「戦後補償に関する国際公聴会」(東京) に参加することを
許可しました。
はい、『万愛花(ヴァン・アイファ)』さん、入りますw
従軍慰安婦問題を考える「万愛花(ヴァン・アイファ)」
http://sikoken.blog.shinobi.jp/慰安婦証言/万愛花(ヴァン・アイファ)
> 【考察】
>
> 「写真記録 破られた沈黙」(以下、「写真」)によると
> 同女が日本兵に捕まったのは以下の通りとなります。
>
> 1回目・・・満14歳(数え16歳)・1943年6月7日(6月28日脱出)
> 2回目・・・満14歳(数え16歳)・1943年8月18日(9月16日脱出)
> 3回目・・・満14歳(数え16歳)・1943年12月8日(1944年1月28日生還)
> ※ 全て旧暦。 「数え」は生まれた時に1歳で1月1日を越える毎に1歳を加算する方法。
> つまり、同女の場合、12月12日〜31日は満年齢+1歳となり、その他は+2歳となります。
>
> しかし、
> 「日本軍による中国女性への性暴力を明らかにする証言集会 in 神戸」(以下「神戸」)
> では、日本兵に捕まったのは1943年と、西暦は一致しているものの、
> 「15歳の6月のはじめ」と証言しており、1943年6月なら同女は
> 満年齢でも数え年でも15歳ではありません。
>
>
> さらに、「写真」、「神戸」、「黄土の村の性暴力」(以下「黄土」)、
> 「ガイサンシーとその姉妹たち」(以下「ガイ」)と比べると
> 以下の通り証言内容に相違点があります。
>
> < 生まれた年 >
>
> ○ 「写真」・・・1929年12月12日生まれ
>
> ○ 「神戸」・・・1929年
>
> ○ 「黄土」・・・1930年1月11日
>
> ○「ガイ」・・・1930年1月
>
> → おそらく、旧暦と新暦の違いでしょう。
>
>
> < 1回目の監禁 >
>
> ○ 「写真」・・・1943年6月7日〜28日(※3週間)
>
> ○ 「神戸」・・・1943年6月の初めに捕まり、1週間経たないうちに逃走
>
> ○ 「黄土」・・・1942年6月半ば頃に捕まり、約1週間後に逃走
> (※1943年の可能性があることの記載あり)
>
> ○ 「ガイ」・・・6月7日に捕まり、数日後逃走(※西暦の記載なし)
>
>
> < 1回目の監禁時の強姦 >
>
> ○ 「写真」・・・「毎日、多くの日本兵に強姦され、私は何度も気を失いました」
>
> ○ 「神戸」・・・記載なし
>
> ○ 「黄土」・・・「二回目や三回目の拉致の時のようなひどい拷問はありませんでしたし、
> 強姦も受けませんでした」
>
> ○ 「ガイ」・・・「銃尻で殴られたりといった暴行を受け、強姦された」
>
> → 強姦されたり、されなかったり
>
>
> < 1回目の逃走 >
>
> ○ 「写真」・・・日本兵たちが会議を開いている隙に逃走
>
> ○ 「神戸」・・・記載なし
>
> ○ 「黄土」・・・日本軍がどこかの村へ掃蕩に行った際に逃走
>
> ○ 「ガイ」・・・日本軍が棗園村へ出かけた隙に逃走
>
> → 会議だったり、掃討だったり。どこかの村だったり、棗園村だったり。
>
> < 2回目の監禁 >
>
> ○ 「写真」・・・8月18日〜9月16日(※約1ヵ月)
>
> ○ 「神戸」・・・7月に捕まり10日くらいで逃走
>
> ○ 「黄土」・・・8月頃。何日監禁されていたか覚えていないが、1週間前後より長かった。
>
> ○「ガイ」・・・8月19日に捕まり、約1週間で逃走
>
> → 1回目も2回目も、「写真」では異常に細かい日付を証言しておきながら、
> 監禁されていた期間に統一性がありません。
>
>
> < 3回目の監禁 >
>
> ○ 「写真」・・・12月8日〜1月28日
>
> ○ 「神戸」・・・記載なし
>
> ○ 「黄土」・・・12月8日か1月8日頃(※期間についての記載なし)
>
> ○ 「ガイ」・・・12月8日に捕まり、正月になった時に死んだと思われ捨てられる
>
>
> < 3回目の拷問の後 >
>
> ○ 「写真」・・・死んだと思われ川に投げ込まれ、お年寄りに助けられる
>
> ○ 「神戸」・・・逃走。ただし、その時のことは語りたくないと証言。
>
> ○ 「黄土」・・・死んだと思われ裸で川辺に捨てられ、老人に助けられる
>
> ○ 「ガイ」・・・凍った河に棄てられる。
>
> → 「神戸」では、3回目も逃走したことになっています。
> また、「写真」では、3回目の拷問の後、
> 真冬の川に裸で投げ込まれたことになっていますが、
> 「黄土」では、川辺に捨てられただけになっています。
> そりゃ、瀕死の状態で真冬の川に投げ込まれたら生きているはずがないでしょう。
>
>
> < 3回目に解放された後 >
>
> ○ 「写真」・・・「丸3年もの間は動くこともできずに寝ていました」
>
> ○ 「神戸」・・・「4回目はどうしても捕まりたくないと、
> 中国のほぼ半分を逃げまわる生活を送った」
>
> ○ 「黄土」・・・自分で少し動けるようになったのは1947年のこととある。
>
> ○ 「ガイ」・・・記載なし
>
> → 「写真」では、動くこともできずに寝ていたはずが、「ガイ」では、逃げ回っています。
>
>
> < 耳たぶが引きちぎられた時とその状況 >
>
> ○ 「写真」・・・1回目の監禁時。
> 共産党員の名前を聞かれても黙っていたので、ひどく殴られる。
> その時に、右耳の肉の一部がイヤリングと共に引きちぎられた
>
> ○ 「神戸」・・・記載なし
>
> ○ 「黄土」・・・3回目の監禁時。
> 「耳にしていたイヤリングが強姦した日本兵の指輪に引っかかり、
> その兵隊が思い切り引っ張ったので、耳たぶが引きちぎられました」
>
> ○ 「ガイ」・・・記載なし
>
> → 尋問時だったり、強姦時だったり。 1回目だったり3回目だったり。
>
>
> その他、同女の証言の疑問点は以下の通りです。(「写真」の証言より)
>
> < 三光作戦で隣村は全滅 >
>
> ・・・何故、同女の村は三光作戦で殺し尽くされなかったのでしょうか。
> そもそも、「三光作戦」は中国側のプロパガンダで人民に徹底抗戦を呼びかけ、
> 士気高揚を図るためのもの。
> 実際に日本側でそのような作戦が取られていたわけではなく、
> 太平洋戦争時に日本が「鬼畜米英」と言っていたのと同レベルのものです。
> もし、本当にそのような作戦が取られていたなら、
> 同女の村がその作戦のえじきにならなかったのはおかしな話です。
>
>
> < 副村長がキリストのように壁に手足を釘で打ち付けられ何日間も血を流し続けて死んだ >
>
> ・・・詳しい描写が無いので何とも言えませんが、手足を釘で打ちつけただけでは
> 体の重みで肉が裂けて、磔状態を保つことは不可能です。 如何にも創作臭い内容です。
> なお、同女と同じ羊泉村で日本兵の犠牲になった劉面換や陳林桃の証言では
> このような副村長の話や全滅させられた隣村の話は出てきません。
>
>
> < 強姦中にわき毛と陰毛を全て抜き取られる >
>
> ・・・私には、わき毛と陰毛を抜き取ることに何の意味があるのか全く分かりません。
> しかも、他の兵隊が強姦している最中にです。 マニアックな日本兵もいたものです。
> また、「ガイサンシーとその姉妹たち」によるとこの行為には中国人も加わっており、
> さらに、それが原因で腋がつるつるになってしまったそうです。
> 毛を抜いたぐらいで永久脱毛にならないと思うのですが。
>
>
> 【信憑性】
>
> 信憑性なし。
>
> 同村で同じように日本兵の被害者となった劉面換や陳林桃の証言と比べても
> 明らかに異色で突出した内容です。
>
> 恐らく同女が日本兵と漢奸(※日本人の手先となった中国人)に
> 酷い暴行を受けたことがあるのは事実だと思いますが、
> あまりにも誇張や創作を挿入し過ぎです。
これは酷い。 もうちょっとマシな証言者を選ぼうぜ。
1995年から始まった山西省の被害女性たちによる日本政府への賠償請求訴訟も容認しましたが、
この年に北京で開催された国連の世界女性会議には、被害女性や関係者の立ち入りを
許しませんでした。
天安門事件につながる民主化運動を警戒して、国際的なフェミニズムや人権運動を
危険視していたのです。
中国政府を変えた 女性国際戦犯法廷と右派のバックラッシュ
中国政府に変化が見られるようになったのは、
1998年から女性国際戦犯法廷(「法廷」)の準備が始まって以降です。
「法廷」 に向けて8人の検事団を結成し、
2000年3月には上海で初の「慰安婦」問題国際シンポジウムが開かれました。
2000年12月の 「法廷」 は大きく報道され、「慰安婦」 問題への関心は高まりました。
その後、各地で被害調査や慰安所跡の保存運動が行われるようになり、
「慰安婦」資料館が上海や雲南に誕生。
桂林や南京では新たな被害者の名乗り出もありました。
こうして中国政府は、「慰安婦」問題を「戦争遺留問題」のひとつに挙げるようになったのです。
結局、日本の反日売国サヨクが火の無い所に放火して回っていたという話じゃないか。
こんなことを功績とばかりに嬉々として自身のwebサイトで公表するその神経が理解できない。
日本での右派によるバックラッシュが強まるようになると、中国政府は日本政府批判を強めました。
2007年3月に当時の安倍晋三首相が「慰安婦」の強制連行を否定した時、李肇星外相は
「 歴史の事実を認めて責任を負うべきだ 」
と批判しました。
2010年3月、日本の最高裁判所が海南島の被害女性による日本政府への謝罪と賠償を求める
訴えを、「『日中共同声明』で中国人の個人賠償請求権は放棄された」 という理由で棄却した時に
は、
外交部(外務省)の秦剛報道官は、
「 『中日共同声明』は両国政府の間で結ばれた政治文書であり、
日本の裁判所による一方的な解釈は無効だ 」
として、
「 日本は責任感を持って、中国の慰安婦賠償問題を適切に取り扱うべきだ 」
と述べています。
「異議あり!」というよりも ( ゚д゚)はぁ? という感じですね。
日中共同声明に 「 個人の賠償請求権は別である 」 と明記されていたにも拘らず、日本の裁判所が
「 個人の賠償請求権は放棄された 」 という判決を下したというなら、ともかく、違いますよね。
日中共同声明 ―― 即ち、『日本国政府と中華人民共和国政府の共同声明』とはコレです。
wikipedia「日本国政府と中華人民共和国政府の共同声明」
http://ja.wikipedia.org/wiki/日本国政府と中華人民共和国政府の共同声明 - 1.2 要旨
> ・ 日本国と中華人民共和国との間のこれまでの不正常な状態は、
> この共同声明が発出される日に終了する。
>
> ・ 日中国交正常化の実現。
>
> ・ 日本国政府は、中華人民共和国政府(共産党政権)が
> 中国の唯一の合法政府であること[1]を承認する。
>
> ・ 中華人民共和国政府は、
> 台湾(=中華民国)が中華人民共和国の領土の不可分の一部であることを重ねて表明する。
> 日本国政府は、この中華人民共和国政府の立場を十分理解し、尊重し、
> ポツダム宣言第八項に基づく立場を堅持する。
> ・ 中華人民共和国政府は、中日両国国民の友好のために、
> 日本国に対する戦争賠償の請求を放棄することを宣言する。
>
> ・ 日本国政府及び中華人民共和国政府は、
> 主権及び領土保全の相互尊重、相互不可侵、内政に対する相互不干渉、
> 平等及び互恵並びに平和共存の諸原則の基礎の上に
> 両国間の恒久的な平和友好関係を確立することに合意する。
>
> ・ 両政府は、右の諸原則及び国際連合憲章の原則に基づき、
> 日本国及び中国が、相互の関係において、すべての紛争を平和的手段により解決し、
> 武力又は武力による威嚇に訴えないことを確認する。
>
> ・ 日中両国間の国交正常化は、第三国に対するものではない。
> 両国のいずれも、アジア・太平洋地域において覇権を求めるべきではなく、
> このような覇権を確立しようとする他のいかなる国あるいは国の集団による試みにも
> 反対する。
>
> ・ 日中平和友好条約の締結を目指す。
外務省 「日本国政府と中華人民共和国政府の共同声明」 全文
http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/china/nc_seimei.html
> 日本国内閣総理大臣田中角栄は、中華人民共和国国務院総理周恩来の招きにより、
> 千九百七十二年九月二十五日から九月三十日まで、中華人民共和国を訪問した。
> 田中総理大臣には大平正芳外務大臣、二階堂進内閣官房長官その他の政府職員が随行し
た。
>
> 毛沢東主席は、九月二十七日に田中角栄総理大臣と会見した。
> 双方は、真剣かつ友好的な話合いを行った。
> 田中総理大臣及び大平外務大臣と周恩来総理及び姫鵬飛外交部長は、
> 日中両国間の国交正常化問題をはじめとする両国間の諸問題及び双方が関心を有する
> その他の諸問題について、終始、友好的な雰囲気のなかで真剣かつ率直に意見を交換し、
> 次の両政府の共同声明を発出することに合意した。
>
> 日中両国は、一衣帯水の間にある隣国であり、長い伝統的友好の歴史を有する。
> 両国国民は、両国間にこれまで存在していた不正常な状態に終止符を打つことを切望してい
る。
> 戦争状態の終結と日中国交の正常化という両国国民の願望の実現は、両国関係の歴史に
> 新たな一頁を開くこととなろう。
>
> 日本側は、過去において日本国が戦争を通じて
> 中国国民に重大な損害を与えたことについての責任を痛感し、深く反省する。
> また、日本側は、中華人民共和国政府が提起した 「復交三原則」 を十分理解する立場に
> 立って国交正常化の実現をはかるという見解を再確認する。
> 中国側は、これを歓迎するものである。
>
> 日中両国間には社会制度の相違があるにもかかわらず、
> 両国は、平和友好関係を樹立すべきであり、また、樹立することが可能である。
> 両国間の国交を正常化し、相互に善隣友好関係を発展させることは、
> 両国国民の利益に合致するところであり、また、アジアにおける緊張緩和と世界の平和に
> 貢献するものである。
>
> 一 日本国と中華人民共和国との間のこれまでの不正常な状態は、
> この共同声明が発出される日に終了する。
>
> 二 日本国政府は、中華人民共和国政府が中国の唯一の合法政府であることを承認する。
>
> 三 中華人民共和国政府は、台湾が中華人民共和国の領土の不可分の一部であることを
> 重ねて表明する。
> 日本国政府は、この中華人民共和国政府の立場を十分理解し、尊重し、
> ポツダム宣言第八項に基づく立場を堅持する。
>
> 四 日本国政府及び中華人民共和国政府は、
> 千九百七十二年九月二十九日から外交関係を樹立することを決定した。
> 両政府は、国際法及び国際慣行に従い、それぞれの首都における
> 他方の大使館の設置及びその任務遂行のために必要なすべての措置をとり、
> また、できるだけすみやかに大使を交換することを決定した。
>
> 五 中華人民共和国政府は、中日両国国民の友好のために、
> 日本国に対する戦争賠償の請求を放棄することを宣言する。
>
> 六 日本国政府及び中華人民共和国政府は、
> 主権及び領土保全の相互尊重、相互不可侵、内政に対する相互不干渉、
> 平等及び互恵並びに平和共存の諸原則の基礎の上に両国間の恒久的な
> 平和友好関係を確立することに合意する。
>
> 両政府は、右の諸原則及び国際連合憲章の原則に基づき、
> 日本国及び中国が、相互の関係において、すべての紛争を平和的手段により解決し、
> 武力又は武力による威嚇に訴えないことを確認する。
>
> 七 日中両国間の国交正常化は、第三国に対するものではない。
> 両国のいずれも、アジア・太平洋地域において覇権を求めるべきではなく、
> このような覇権を確立しようとする他のいかなる国あるいは国の集団による試みにも
> 反対する。
>
>
> 八 日本国政府及び中華人民共和国政府は、両国間の平和友好関係を強固にし、
> 発展させるため、平和友好条約の締結を目的として、交渉を行うことに合意した。
>
> 九 日本国政府及び中華人民共和国政府は、両国間の関係を一層発展させ、
> 人的往来を拡大するため、必要に応じ、また、既存の民間取決めをも考慮しつつ、
> 貿易、海運、航空、漁業等の事項に関する協定の締結を目的として、交渉を行うこと
> に合意した。
>
> 千九百七十二年九月二十九日に北京で
>
> 日本国内閣総理大臣 田中角栄(署名)
> 日本国外務大臣 大平正芳(署名)
> 中華人民共和国国務院総理 周恩来(署名)
> 中華人民共和国 外交部長 姫鵬飛(署名)
はい
> 五 中華人民共和国政府は、中日両国国民の友好のために、
> 日本国に対する戦争賠償の請求を放棄することを宣言する。
と明文化されていますね。
> 中日両国国民の友好のために、日本国に対する戦争賠償の請求を放棄する
と決めたということは、この期に及んで、“個人”が日本に対して戦争賠償を請求することを認めてし
まうと、
中日両国国民の友好のためにならない
と他の誰でもない当時の中華人民共和国政府が考えていたという事です。
つまり、
> 五 中華人民共和国政府は、中日両国国民の友好のために、
> 日本国に対する戦争賠償の請求を放棄することを宣言する。
が嘘偽りのない当時の中華人民共和国政府の本心であったという前提に立てば、日本国政府と中
華人民共和国政府の共同声明に於いて、国家の賠償権請求が破棄された時点で、同時に個人の賠
償請求権も破棄されたと捉える方が理に適っています。
というか、双方の国益の為に国家が賠償請求権を破棄しているのに、国民が勝手に相手国に対して
賠償を請求してしまうのは、国家に対する反逆でしかありません。 本来ならば、中華人民共和国政府
が責任を持って取り締まるべき国賊行為を推奨している時点で、日中共同声明 ( 日本国政府と中華
人民共和国政府の共同声明 ) に対する破棄宣告にも等しい危険な徴発でしかありません。
およそ、文明国のすることではありませんね。
安倍首相が 「村山談話」 を見直す考えを表明したことについて、
2013年1月の外交部の定例記者会見で華春瑩報道官は、
「 『村山談話』は日本政府が過去の植民地支配と侵略について、
被害を受けたアジア各国の人々に示した厳粛な認識と承諾であり、
各国が注目し、重視している。
日本が歴史を鑑として未来に向かうという精神にのっとり、
問題を適切に処理することを期待する 」
と述べました。
なら、これで問題はないんだな。
2013年11月04日 NAVERまとめ
選挙前の安倍晋三「もう村山談話に縛られない」→選挙後「踏襲します」
http://matome.naver.jp/odai/2135654407912633101
> 菅義偉官房長官は27日未明の記者会見で、
> 日本の過去の植民地支配と侵略を謝罪した1995年の村山首相談話について、
> 「 2006年(の第1次安倍内閣発足時)に、これまでの立場を引き継ぐ考えを表明している。
> 歴代内閣の立場を引き継ぐ考えだ 」
> と述べ、第2次安倍内閣も踏襲する方針を表明した。
>
>
> 村山談話、第2次内閣も踏襲 - WSJ.com
>
>
> ■ 選挙前
>
> " かつて自民党は歴代政府の政府答弁や法解釈などをずっと引きずってきたが、
> 政権復帰したらそんなしがらみを捨てて再スタートできる。
> もう村山談話や河野談話に縛られることもない "
>
>
> 出典 【土・日曜日に書く】 政治部・阿比留瑠比
> やはり河野談話は破棄すべし+(3/3ページ) - MSN産経ニュース
>
>
>
> " 村山さんの個人的な歴史観に日本がいつまでも縛られることはない。 "
>
>
> 出典 【政治】 安倍晋三「じつは私は村山談話を潰すために安倍談話を出そうと思っていた」
>
>
>
> " 再び自民党が政権の座に就いた場合は
> 「 (教科書で周辺諸国への配慮を約束した)宮沢喜一官房長官談話、河野談話、
> (アジア諸国に心からのおわびを表明した)村山富市首相談話、全ての談話の見直しを
> する必要がある。 新たな政府見解を出すべきだろう "
>
>
> 出典 安倍元首相「橋下氏は戦いの同志」
> 次期衆院選、政界再編の第一歩+(2/2ページ) - MSN産経ニュース
>
>
>
> " 河野談話と村山談話に代わる新たな談話を閣議決定すべきだ "
>
>
> 出典 【社説検証】民・自党首選 河野談話に根拠なしと産経
> 朝日は安倍氏を名指し批判+(2/3ページ) - MSN産経ニュース
>
>
>
> " 「 周辺国への過度な配慮は真の友好につながらなかった。
> 東アジア外交を立て直さなければならない 」 "
>
> 出典 安倍元首相「過去謝罪の談話すべて修正」
> …日本、中国には低姿勢・韓国には高姿勢 | Joongang Ilbo | 中央日報
>
>
>
> ■ 選挙後
>
> " 日本の過去の植民地支配と侵略を謝罪した1995年の村山首相談話について、
> 第2次安倍内閣も踏襲する方針を表明した。 "
>
>
> 出典 村山談話、第2次内閣も踏襲 - WSJ.com
>
>
>
> " 菅官房長官は、過去の植民地支配と侵略に対し痛切な反省を表明した
> 村山元総理大臣の談話について、
> 「 日本政府は先の大戦を踏まえ、すべての犠牲者に慎んで哀悼の意を表してきた。
> 安倍内閣も歴代の内閣の立場を引き継ぐ考えだ 」
> と述べました。"
>
> 出典 官房長官“日銀総裁は首相に考え近い人” NHKニュース ( 消えました / 魚拓なし )
>
>
>
> ■ 第1次安倍内閣では
>
> " 2006年(平成18年)10月5日、安倍首相は、衆議院予算委員会で、村山談話について
> 「 アジアの国々に対して大変な被害を与え、傷を与えたことは厳然たる事実 」
> であることは「国として示した通りであると、私は考えている」と再確認。"
>
> 出典 戦後50周年の終戦記念日にあたっての村山首相談話 - Wikipedia
>
>
> " 1993年(平成5年)の河野談話とともに、
> 「 私の内閣で変更するものではない 」
> と明言した。"
>
> 出典 戦後50周年の終戦記念日にあたっての村山首相談話 - Wikipedia
>
《以下略》
よかったね♪
国連での発言
中国政府の「慰安婦」問題への態度は、国連での発言でも明確になってきました。
すべての国連加盟国を対象に人権状況を審査する人権理事会の「普遍的審査」(UPR)に基づく
対日作業部会が開かれた2012年10月31日、中国は日本軍性奴隷制(「慰安婦」問題)について、
「 日本は誠意ある対応を取っていない。
過去の問題に責任ある対応を取り、被害者に補償すべきだ 」
と強く批判しました。
中国が人権理事会でこの問題を指摘するのは異例のことでした。
日本を対象にした作業部会は2008年に続き2回目ですが、前回はこの問題に言及はしても、
直接的な表現は控えていたのです。
そして2013年3月14日には国連人権理事会で、
日本政府が問題解決に向けて責任ある措置を取るよう求めた劉振民大使は、
「 日本は日本軍性奴隷制(『慰安婦』問題)を謝罪し、賠償すべきだ 」
との意見を述べました。
お前が言うな。
『 解決編 4 国際社会の声 - 5 国連人権理事会普遍的定期審査(UPR) を斬る 』 へ貼った引
用をもう一度。
- - 引用再貼り付け此処から - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
偽中華人民共和国の暴行展覧
【戦時共軍の強姦、略奪および虐殺の行為】
http://www.destroy-china.jp/index55j.htm
《略》
>
> ソ連軍は中共軍とともに満州や北朝鮮の人々を強姦、略奪および虐殺の行為が始まった
>
> その後、中共はソ連に媚びへつらうた目に、ソ連軍の命令を従り、ソ連の「義挙」を賛成した。
> 彼らはソ連軍とともに満州や北朝鮮の人々を強姦しまくっていた。
>
> 日本の連合軍への降伏により、日本軍は38度線を境に、
> 南鮮はアメリカ軍、北鮮はソ連軍へ降伏するように指令された。
> 南鮮の日本人は終戦の年の暮れまでにほとんどすべて引き揚げたが、
> 北鮮では約31〜2万の日本人がそのまま残っていた。
>
> もともと北鮮に住んでいた27〜8万と、満州から戦火をさけて逃げてきた4万人である。
> 北鮮にはいってきたソ連軍と中共軍は、満州におけると同様、略奪、放火、殺人、暴行、
> 強姦をほしいままにし、在留日本人は一瞬にして奈落の底に投じられることになった。
> 白昼、妻は夫の前で犯され、泣き叫ぶセーラー服の女学生は
> ソ連軍と中共軍のトラックで集団的にら致された。
> 反抗したもの、暴行を阻止しようとしたものは容赦なく射殺された。
>
> 満州奥地から引き揚げて来た人、ソ連軍と中共軍の侵攻と引き揚げが重なった人たちは
> 悲惨だった。
> ソ連兵、中共軍や現地の中国人は無抵抗の日本の民間人に掠奪と暴行の限りを加えた。
> 集団は散り散りになり、飢えと疾病で多くの人の命が失われた。
> 中でも日本人婦女子の惨状は想像を絶するものがあった。
> 特にソ連兵は日本人の女性とみれば見さかいなく襲いかかった。
> 殆どが銃口を突きつけての強姦、輪姦であり、その実態についての記録は
> 数多く残されている。
> ソ連兵は満州だけでなく欧州においても、現地の住民を対象にしたレイプで
> 性欲を処理するのが慣行であった。
>
> ようやく満州から陸路朝鮮に入り、半島を南下するに際し
> ここで再び現地人男性による凌辱が繰り返されたのである。
> 不法妊娠者の数から医師の試算するところでは、被害者は少女から中年婦人に至るまで
> 約5,000人に及んだと推定される。
>
[ 画像:中共軍に殺された一家 (略)
>
>
> 福岡の旧二日市保養所、看護婦が体験を証言
>
> 終戦直後、中国大陸から引き揚げ途中に旧ソ連軍と中共軍から暴行を受け
> 妊娠した女性の堕胎処置が行われた福岡県筑紫野市武蔵の「旧二日市保養所」跡地で
> 十二日、供養が行われた。
> 当時、看護婦として同保養所で働いた村石正子さん(71)が初めて参列し、
> 自らの体験を涙ながらに語り、隠れた引き揚げ史を証言した。
>
> 「博多引揚援護局史」 などによると、旧二日市保養所は一九四六年三月に開設。
> 患者総数は三百八十人、閉鎖までの治療日数は延べ七千九百八十一日を数えた。
> 堕胎は、当時非合法だったこともあり、保養所の歴史はあまり語られず、
> 引き揚げ史の中でも実態は詳しく分かっていない。
>
> 日赤看護婦だった村石さんは、四六年、同保養所で約三カ月勤務。
> 「 堕胎は違法と知っていたが、心ならず妊娠した女性は故郷にも帰れなかった。
> ただ救いたい、という一心だった 」
> と当時の様子を証言した。
>
> 処置後、「悔しい」という言葉を残して亡くなった十七歳の師範学校女生徒のことなどを
> 思いだすにつけ、村石さんは自分の過去に苦しめられたが、五十年余りがたち
> 「 歴史の一ページとして証言しなければならない 」
> と思ったという。
>
> 現在特別養護老人ホームがある同保養所跡には八一年、福岡市の医師が石碑を建立。
> 以来、ホーム側が毎年、供養を続けている。
> 証言を聞いた住民グループ「戦後五十年筑紫野語ろう会」の田辺幸子代表は
> 「 万感迫るものを感じた。 ほかの引き揚げ地でも同じことがあったはず 」
> と指摘。
>
> 供養を主催した一人の済生会二日市病院の水田耕二院長らは
> 「 悲惨な歴史を明らかにすることが、生まれてこなかった子供たちのためにもなる 」
> として、旧二日市保養所の実態解明を続けることにしている。
>
>
> 尼港(ニコライエフスク港)事件について
>
> (前略)
> ところが結局この121名は投獄され、食事もろくに与えられず日本の救援軍に対する
> 防御陣地構築に駆り出された後、零下30度のアドミラル河岸で両手を針金で後ろ手に
> 縛られたまま共産軍によって次々と虐殺された。
> 残された在留日本人も(この人達は当時商社などに勤めていた一般市民である)、
> 多くが共産パルチザンの手で惨殺された。
> この惨殺には、中国人と朝鮮人も加わり、日本人の死体の指を切り落として指輪を奪い、
> 斧を振るって頭部を砕き金歯を奪って行ったと言う。
> 以上は、中国人の妻となっていたため難を逃れた日本女性など生き残った人の証言、及び
> 救援軍によって掘り出された
> 戦没将兵の手帳にある戦闘記録による。
>
> また誌面に限りがあるので書ききれないが、満州から引き上げてくる無防備な
> 日本開拓団の人々に対し、ロシア兵も八路軍(中国共産党軍)も朝鮮八路軍(注)も
> 暴虐の限りを尽くしている。
> 後からやって来た国民党の正規軍も格好は良かったが、賄賂や婦女暴行は
> 日常茶飯事だったという。
> 筆者の親戚に何度か捕らえられたが脱走し、最後には親切な中国人にかくまわれて
> 奇跡的に一命を取り留めた人がおり、詳しい手記を残している。
>
> 日本女性を連れ去って強姦する、それから中国残留孤児には 「 父親とはぐれ 」 と言うのが
> 良くあるが、これははぐれたのではない。 父親は連行されて虐殺されたのである。
> この親戚は、中国共産党軍が、開拓団の団長や日本の官吏であった人々を、
> 川原に引き出して銃で撃った上、銃剣で蜂の巣のように突き刺したり、
> 首だけ出して生き埋めにしておいて、死ぬまで軍靴で顔面を蹴り、なぶり殺しにする所を
> その目で見たと書いている (原文には犠牲者の名前も書いてある)。
>
>
> 中共兵に強姦された女性
>
> 「 敗戦の翌年の2月、ソ連兵が日本軍の捕虜を連れて引き上げると、
> 入れ代わりに国民党が共産軍と戦うために入ってきて、またしても戦争です。
> 大勢の日本女性が殴られ、仕方なく妓女にされました。
> 私は国民党軍の師団長に脅迫されてとらわれの身となり、乱暴されました。」
> ( 「女たちの太平洋戦争T」 朝日新聞社 )
>
> 「 列車は臨時停車し、そのたびに八路軍兵士が復員者の携帯している貴重品などを
> 強奪する。
> ・・・そして、彼女らは兵士に列車から引き降ろされて、
> ・・・連行されたところは元の天津で、『妓女戸』と呼ばれる慰安所であった。
> 彼女たちはここで約2年、八路軍兵士のために、日夜働かされた・」
> ( 富沢繁編 「女たちの戦争よもやま物語」 光人社 )
>
> 「 応城でのこと、一人の慰安婦が新四軍(中共軍)に拉致された。
> だが、運よく、日本憲兵隊で抑留していた新四軍の中隊長の妹と、
> その慰安婦を交換する交渉がまとまり、新溝かどこかの橋の上で相互に引き渡された。
> その折、慰安婦の話によると、向こう側でもやはり慰安婦をやらされたそうである。
> 中共兵は行列を作って順番を待っているので一体、何人やらされるのかと勘定したが、
> 30人ほど教えて面倒臭くなってよしたそうだ。
> 中共兵は切符制なのに比べて、日本兵の場合はお金がないと遊べないから可哀想だと
> 思ったという 」
> ( 長沢健一著 「漢口慰安所」 )
>
[ 画像:中共軍に強姦された女性 (略)
>
>
> 長春包囲戦
>
> 長春包囲戦とは、中国国民党軍によって守られた長春市(新京)に対して
> 中共軍によって行われた包囲作戦(兵糧攻め)のことである。
> 1947年5月23日から10月19日までの150日間続いた。
> 長春包囲戦は遼瀋戦役の一部であり、長春の陥落は遼瀋戦役の第一段階の終了を
> 意味していた。
>
> 1947年5月23日、中共軍は国民党軍に守られた長春に対して包囲を敷き始め、
> 空輸を停止した。
> 包囲の間、中共軍は林彪によって指揮されていた。
> 林ははじめ、4月に長春を攻撃するつもりであったが
> 包囲が完成した後は彼の注意は他の都市へと移った。
> 林は最終的に10月には長春を陥落させるつもりだった。
> 毛沢東は林に先の都市では5カ月もかからなかったと林を嘲笑する電報を送り、
> 林に錦州を攻めるよう命令した。
>
> その後錦州陥落の情報が長春に届き、国民党軍の指揮官の鄭洞国は
> 大部分の幹部と共に中共軍に投降した。
> この国民党軍第60軍および新第7軍の投降によって
> 1947年10月19日に中共軍が長春に入り、150日に及ぶ包囲戦は終了した。
> 鄭洞国らは毛個人の命令で中共軍のポストが与えられた。
>
> 包囲の間、中共軍は役に立つ人以外は一切外に出さず、密輸者は即座に銃殺するほど
> 徹底的に兵糧攻め作戦を行い、その結果市内では餓死者が続出した。
> 最終的な餓死者は33万人に達し、国民党軍が降伏する間の5か月間に
> 50万人だった市内の人口は17万人にまで減少した。
> 共産党の軍隊が市内に初めて入って見た光景は餓死者の死体の山だったという。
>
> 1989年8月、六四天安門事件の2カ月後に張正隆中佐が執筆した雪白血紅という本が
> 「中国人民解放軍出版社」 によって出版された。
> この本によると、長春包囲戦の間に150,000人の一般市民が餓死し、
> 市から脱出しようとした一般人は国民党軍への食糧供給に圧力をかけるために
> 追い返されたと記している。
> 張中佐は中国革命が 「 コストに見合う価値がない 」 と考え、林彪軍の技術を
> 毛沢東よりも優れていると称賛した。
> 彼はまた、中国共産党幹部は国共内戦の間にアヘン取引で私腹を肥やしたと主張した。
> 楊尚昆は雪白血紅が 「 共産党を侮辱している 」 と述べ、1990年の春に
> 雪白血紅を発禁とした。
>
>
> 結論
>
> 統計による、強姦された中国人、日本人、満洲人と朝鮮人女性は三十万以上に至った。
> 内戦のとき、共産党軍に残害された中国人は一億以上にいたったかもしれない。
> しかし、これは共産党山積の暴行の一部だけです。
2011年10月14日 真実が知りたい、真実を知って欲しい
当時の中国兵の実態は、国際法なんて概念を持たない匪賊
http://nomorepropaganda.blog39.fc2.com/blog-entry-244.html
> 「満州国」 見聞録リットン調査団同行記/ハインリッヒ・シュネーより
>
> 『ハルビンでは次のような話が信用できるものとして流布していた。
> すなわち兵士の多くは、いつでも変えられる2種の腕章を持っている。
> 彼らはあるときは、吉林軍すなわち 「満州国」 軍のしるしをつけ、
> また他の時には、反吉林軍、すなわち 「満州国」 軍および日本軍と敵対する
> 中国軍のしるしをつけているというのだ。
> ここで問題になるのは伝統的な中国兵のあり方である。
> 昔から中国に長いこと居住する欧州各国人の話によると、
> 兵士は圧倒的に下層階級出身者が多かった。
> 彼らは兵士も職業の一つと見なしていた。
> 給料は月に2,3ドルに過ぎず、生計を保つのは難しく、金持ちになるためには
> 戦利品を略奪するのが一番簡単であった。
> 上流社会の中国人は一般に兵士を見下し、自ら軍隊に入ろうとはしなかった。
> 古くからの考えによれば、軍隊に入るのは恥ずかしいことであった。 』
>
>
> 暗黒大陸中国の真実/ラルフ・タウンゼントより
>
> 『 中国の家では昔から、できのよい子を一人選んで教育を受けさせた。
> 勉強だけすればよく、家事などは一切免除である。
> そこで、肉体労働を「頭の悪いものがやる仕事」と極端に嫌う学者が育つという仕組みだ。
> 金で解決できないものは無い、となる。兵役は最低の仕事である。
> むかしから
> 「 良い鉄は釘にしない。 良い人間は兵にならない。 何になっても良いが、
> 兵隊にだけはなるなよ 」
> と言われる。 中国軍を見ると妙に納得できる。』
>
> 『 それでは実績のある軍に入ったらどんな良い目ができるだろうか。
> 殺し文句はこうである。
> 「 一つ町を手に入れたら略奪は思いのまま、女も思いのまま 」
> これが中国人が考える 「ロメオとジュリエット」 である。
> これを目当てに新兵さんは鉄砲を担ぐ。 鉄砲が「食券」だ。
> さらに、遅れ気味ではあっても、寝返り防止に数ドルお手当ももらえる。
> 大義名分まであるから言うこと無し。
> ただし、中身は学生のスローガンと何ら変わらない。
> お題目は立派でも悪事を働くのには変わりない。』
>
> 『 戦がまたいかにも中国的である。 最後まで戦うことはまず無い。
> 戦闘参加人数に対して、戦死者は驚くほど少ない。
> たとえば、それぞれ5万人の兵力がぶつかる戦では、
> 2,3百人ほどの戦死者が出たら 「勝負あった」 となる。
> 兵士には敢闘精神が無い。
> 日本人や欧米人とはちがって、「闘争心」 や 「何が何でも勝利を」 と言う気迫が無い。
> 相手を倒そうという目的が全くない。
> 所詮、食うためにたまたま軍隊に入ったのだから、弾に当たって命を落としたら
> 元も子もない。 両軍ただにらみ合うだけである。
> もちろん前線では小競り合いがあり、犠牲者も少々出るが、
> 本隊は相手が自陣に攻め込まない限り、数ヶ月ものらりくらりして、本格的攻撃はしない。
> (中略)
> もちろん3百万もの人間が戦えば
> ( 3百万とは大げさだが、理論的にはいくつもの集団が集まって
> 戦闘に参加するのだからこういう数字になる )、
> 多くの死者が出る。ところが兵隊の死者はごく少ない。
> ほとんどは戦場となった地域の住民である。 しかもほとんどが餓死である。
> 米粒一つ残らず 「友軍」 に奪われるからである。』
>
> 『 荷物運搬用の牛馬の代わりになる苦力を大量に捕獲することが中国軍の「手」である。
> したがって軍が動くという噂が流れると、苦力でごった返していた通りがガランとなる。
> 捕まったらどうなるか。 過酷な仕事をやらされる。 食事はもらえるかどうかわからない。
> 兵の装備がまたお粗末なもので、街中で見かける宣伝用の兵隊は別として、
> 食料はほとんど支給されない。
> したがって、行く先々で食券代わりに銃剣を振り回して糧秣を略奪する。
> 銃を持たない苦力は食べ物を手に入れるのに実に苦労するが、兵隊は
> 「 ご奉公してよかった 」 と思えるぐらいいっぱい食える。
> 強制連行した苦力の扱いは残虐で目を覆うものがある。
> 抵抗も何もしなくても、ただ 「殴って楽しむため」、混紡や銃で殴るのである。
> 知り合いの領事から聞いた話だが、捕まった使用人の救出に赴いたそうである。
> 歩行もままならぬよぼよぼの老人が、通りがかりの兵士に徴用され荷物運びを命じられ、
> 何度棍棒で殴られても、荷物を肩に背負うことができない。
> 兵士は面白半分、心行くまで殴ってから老人に手を貸して荷物を背負わせた。
> それからまた数発殴られ、よろよろ歩き出したそうである。
> 苦力は実に悲惨である。 兵隊でさえいやがるところへ回される。
> もし 「敵方」(一時的に構想する、ならず者の集団)に捕まったら、
> 強制されての従軍だと言うことは無視され、とにかく戦果を挙げるため射殺される。
> 捕虜の圧倒的多数はこういう風に徴発された苦力である。
> 戦闘機録にある 「捕獲捕虜」 とは 「敵方で虐殺されたもの」 と読み替えてよい。
> 勝者の気分次第で敗者は 「屠殺」 されることがごく普通である。
> 数百万単位の軍隊が抗争を断続的に繰り広げながら、捕虜収容所が全くないということは
> 注目に値する。 捕虜の給食施設が全くないのだ。
> 食料や施設が欠乏しており捕虜などに回す余裕などなく、万が一潤沢にあったとしても
> 無用な敵に何かを提供するなど考えられない。
> 謀略、裏切りは当たり前で、いずこの軍の歩哨も捕虜の脱走を手助けするような
> 信用の置けない者ばかりである。』
>
> 以上
>
《以下略》
2012年09月10日 中韓を知りすぎた男
醜い中国人 近現代史NO44
http://kkmyo.blog70.fc2.com/blog-entry-940.html
> 近現代史の旅44回目です。
> 満州・支那事変をはじめとする日本の中国進出は中国のプロパガンダによって
> 日本軍を侵略、略奪、虐殺の代名詞としてすり替えられ、今なお非難され続けていますが、
> 全く逆です。
>
> 支那事変での中国軍は同胞である中国民衆を行く先々で強奪し、強姦し、
> また大量殺害したのに対して、日本軍は中国軍が破壊と略奪したあとに行って
> 彼らを救済していきました。
>
> 中国の軍隊というものは、古来から略奪と虐殺を行なう武装集団です。
> 共産軍も国民党軍も、基本的にはルンペンの寄せ集めたような集団にすぎなかった。
> 彼らが軍隊に入ったのは、占領地域で略奪、強姦が好き放題出来るためです。
> そうしないと司令官が殺されてしまうからです。
>
> 支那事変における戦闘は、たいていの場合、
> 日本軍が攻めると中国軍が撤退という形で進みました。
> ですからたまの激戦地を除けば、日本軍の攻撃で亡くなった死者はそれほど多くありません。
>
> むしろ中国兵の死者の多くは中国人が中国人を殺したものでした。
> 中国の軍隊というものは、兵士たちの後ろに 「督戦隊」 がいて、逃げる兵士がいると、
> その兵士を撃ち殺したのです。
>
> 黄文雄氏によれば、
> 「 日中戦争時の死傷者は、日本軍の攻撃によって亡くなった中国兵よりも、
> 督戦隊に殺された中国兵たちのほうが多かったくらいだ 」
> と言っています。
>
> 中国軍が通った地は略奪や強姦だけでなく、日本軍の進路を遅らせるために
> 道路や橋、灌漑施設、その他の施設を次々に破壊していきました。
> それによって中国経済は破壊され、農業も工業も致命的な被害を受けました。
>
> 1938年「国共合作」により共産軍と組んで日本を攻撃した蒋介石の軍隊は
> 日本軍の進撃の道をはばもうと,黄河の堤防を爆破しました。
> そのために4千の村が水没し、水死者100万人、その他の被害者600万人という
> 大惨事となりました。
>
> その惨状を見た当時のアメリカ人記者は、
> 「 道端には凍死者と餓死者があふれ、飢えた人々は死体の肉を食べていた 」
> と報じています。
>
> 堤防決壊の直後、日本軍は堤防の修復作業を行っただけでなく、被災した民衆の救助と、
> 防疫作業を行いました。
> 日本軍は中国軍から虫けらのように扱われた中国民衆を、必死になって救済したのです。
>
> 中国側はまた、事件直後から、堤防決壊を日本軍のしわざとして宣伝しましたが、
> この自作自演は外国人記者に見破られています。
>
> 日本軍は中国住民の救済、治安維持、戦災復興などにとりくんだので、
> それまで軍隊とは匪賊にすぎないと思っていた中国民衆は驚き、
> 日本軍を熱烈に歓迎しました。
> 統率が取れ、略奪や悪事を働かず、民衆を救う軍隊というものを、
> 彼らは生まれて初めて見たからです。
>
> 中国人民の本当の敵は、日本軍でなく、中国軍だったのです。
> もともとソ連やアメリカの謀略によって中国内戦に引きずり込まれただけで、
> 断じて中国を自分の領土とするために侵略したのではありません。
>
> 日本は中国の領土保全を掲げ、誰からも侵略されない、
> 中国人による中国人のための国家の誕生を目指したのです。
> 中国人民軍の本当の敵は、日本軍ではなく、中国軍だったのです。
>
> 蒋介石の国民党軍も毛沢東の共産軍も、その頭の中にあったのは中国人民のことでなく、
> 権力奪取のみでした。
>
> 「 中国の5000年の歴史は 「人殺し文化」 です。
> 唐の黄巣の乱、明の李自成や帳献忠の物語でも読めば、
> 中国の人殺しの文化様式を理解できる。
> 中国式は残忍だ、頭に穴を開け、目をえぐり,鼻や耳をそぎ,皮をはぐ 」
>
> と黄文雄氏は言っています。
>
> また黄文雄氏は
>
> 「 南京大虐殺の記念館には、日本兵が人間の肝を食っている模型が展示されているが、
> 人食いも中国の食文化としてのカニバリズム嗜好であり、
> 日本軍の兵士が実際に行ったことではない。
> 明の李時珍の 「本草綱目」 に薬用効果があるとして載せられている。
> ほかにも銃剣で嬰児を串刺しにしたりする日本軍の描写は、
> いずれも中国の戦争話によく出てくるもので、晋書の「呂隆」「呂光伝」や
> 明史の「帳献忠伝」あたりをコピーしたものだろう。
> 日本軍の虐殺の記述は、事実に基づいたものでなく、
> 中国歴代の王朝が交代するときに行われた虐殺の歴史から焼き直したり、
> 引き移したりしたものばかりなのである 」
>
> と黄文雄氏は言っています。
>
>
> ユン・チアンの著書 「マオ、誰も知らなかった毛沢東」 には次のような恐ろしい場面が
> 記述されています。
>
> 「 ある若いイギリス女性は、北京の中心部で行われた集会を目撃した。
> 約200人が街路を引き回されたあと頭を打ち抜かれて処刑され、
> 脳みそが見物人のところまで飛び散った。
> 死体を積んだトラックが血をしたたらせながら街路を往来していた 」
>
> 「 27年に渡った毛沢東の支配下において、殺戮された数は総計で2700万人に達すると
> 思われる 」 (ユン・チアン)
>
> およそ、今までの中国人を、もっともひどく痛めつけたのは、
> 外国人ではなく、同じ中国人である。
> いつも中国人を裏切るのは、他でもなく、同じ中国人自身である。
> 中国人を地獄まで陥れるのは外国人でなく、やはり中国人である。(黄文雄氏)
>
> 我々日本人は隣に住んでいる中国人がいかに残忍で残酷で、また大嘘つきで
> 自分たちの罪を平気で他人に擦りつける民族であること、
> そして日本人の理解をはるかに超えた野獣人であることを 肝に銘じなければならない。
2013年9月13日 nozawa22 New!
「通州事件」日本軍全滅、中国軍の略奪、暴行、強姦惨状
http://new22nozawa.cocolog-nifty.com/blog/2013/09/post-ed67.html ( 魚拓 )
長いので引用を割愛
中国共産党の犯罪 三
チベットへの侵略と虐殺
http://dadao.kt.fc2.com/fanzui03.htm
> ■ 有史以来一貫して独立国であったチベット
>
> チベットには約2100年の歴史がある。
> とはいえ始めの数百年は神話と史実の境界が曖昧なので、
> チベットの歴史はソンツェン・ガンポが仏教に基礎をおく
> 王国を築いた7世紀から語られることが一般的である。
> 中国では唐王朝が栄えた時代だ。
> あろうことか中国では唐代よりチベットは中国の一部分であったという、
> それこそチベットの全歴史を否定するような歪曲を行っているが、
> 西暦763年にチベットは唐の首都長安を占領し、一時的に
> 唐はチベットの朝貢国になったこともある。
> 今日まで続くダライラマ制度は17世紀に始まったもので、
> それ以来ダライラマは転生を繰り返して現在では14世に至っている。
> 一般的な歴史観ではチベットは1727年に清朝の支配下に入ったとされる。
> しかし実際にはラサに駐蔵大臣2人を置いていただけで、
> 現代で言う大使館を開設していたに過ぎない。
> チベットは英領インドと国境条約を結ぶなど一貫して独立国家として主権を行使してきた。
> 20世紀前半当時、チベットは日本、中国、タイと並んで欧米の植民地化を免れた
> アジアでも数少ない独立国家のひとつであった。
>
>
> ■ 中国共産党のチベット侵略戦争
>
> 1950年10月7日、中共軍がチベット東部へと侵略戦争を開始した。
> チベット国境警備隊と現地の義勇軍が抵抗したものの、武器・人員ともに圧倒的な
> 中共軍を相手に退却を余儀なくされた。
> そもそも中共軍は100万の軍勢を有している一方で、チベット軍は8500人に過ぎない。
> 始めから軍事力による勝敗は見えていた。
> 1951年5月、北京でチベットと中国との交渉が行われた。
> チベットから北京に派遣された代表2人は交渉に赴いただけで、
> チベット政府から条約を締結する権利を与えられていなかった。
> だが中共の脅迫により強引に署名させられてしまった。
> こうして1951年5月23日、チベットの平和解放に関する十七か条協定が締結された。
>
>
> ■ チベットが中華人民共和国の支配下に入ると
> 早速チベット人と中国人の摩擦が激化した。
>
> 当時人口7万人のラサに2万人以上の人民解放軍が進駐し、
> ラサ市民は住宅と食料の提供を強制され、瞬く間に食糧難と猛烈なインフレが
> ラサを直撃した。
> チベットと中国を結ぶ道路建設には大量のチベット人が無報酬で強制労働をさせられ、
> 数千人の命が奪われた。
> また、中国共産党はチベットの青少年に、チベットの宗教、文化、習慣を侮辱し、
> 共産党を賛美する教育を強制した。
> チベット人の不満が日増しに高まる中、ダライラマ法王は1954年、北京を訪問し、
> 毛沢東、周恩来、劉少奇、朱徳らと会談した。
> このときダライラマ法王は一筋の希望を見出し、中国との協調も本気で考えるように
> なったという。
> だがその後にチベットでは、人類がかつて経験したことがないような悲劇に
> 直面するようになる。
>
>
> ■ チベットへの弾圧強化
>
> 中国共産党の悪政、度重なる条約違反にチベット人の怒りは頂点に達していた。
> 1958年以降、東チベットではカンパ族を中心に反乱が続発、これに対し中共軍は
> 見せしめのため、何千という寺院や町を砲撃や爆撃で破壊、寺院の仏像や経典を
> 容赦なく略奪した。
> 東チベットのいたるところで中共軍による虐殺が行われた。
> 以下に『中国はいかにチベットを侵略したか』から引用しよう。
>
> 「 妻、娘、尼僧たちは繰り返し強姦されまくった。
> 特に尊敬されている僧たちは狙いうちにされ、尼僧と性交を強いられたりもした。
> ある僧院は馬小屋にされ、僧たちはそこに連行されてきた売春婦との性交を強いられた。
> 拒否した僧のあるものは腕を叩き切られ、「仏陀に腕を返してもらえ」と嘲笑された。
> 大勢のチベット人は、手足を切断され、首を切り落とされ、焼かれ、熱湯を浴びせられ、
> 馬や車で引きずり殺されていった。
> アムドでは高僧たちが散々殴打されて穴に放り込まれ、村人はそのうえに
> 小便をかけるように命じられた。
> さらに高僧たちは 「霊力で穴から飛び上がって見せろ」 と中共兵に嘲られ、
> 挙句に全員射殺された。
> おびえる子供たちの目の前で両親は頭をぶち抜かれ、
> 大勢の少年少女が家から追われて中共の学校や孤児院に強制収容されていった。
> 貴重な仏像は冒涜され、その場で叩き壊されたり、中国本土へ持ち去られていったり
> した。
> 経典類はトイレットペーパーにされた。
> 僧院は馬や豚小屋にされるか、リタン僧院のように跡形もなく破壊されてしまった。
> リタン省長は村人の見守る中で拷問され、射殺された。
> 何千人もの村民は強制労働に駆り出されそのまま行方不明になっていった。
> 僧院長たちは自分の糞便をむりやり食わされ、「 仏陀はどうしたんだ?」 と
> 中共兵に嘲られた 」
>
>
> ■ ラサ動乱とダライラマ法王の亡命
>
> 1959年2月、中共はダライラマ法王を、3月10日に開催される観劇に招待した。
> その際、警備をつけないようにという注文をつけた。
> 法王が拉致されるのではないかという不安が瞬く間にラサ市民の間に広がった。
> 1959年3月10日、3万人のラサ市民が市の中心部にあるノルブリンガ宮殿に集結、
> 人々は口々に 「 チベットに独立を、中国人は帰れ 」 とシュプレヒコールを叫んだ。
> 法王は観劇への出席を取りやめることにしたが、大群衆はノルブリンガを去らなかった。
> これに対し中国共産党は軍を増強し、事態は一層緊迫の度を増した。
> 3月16日、ダライラマ法王はついに決意して、一般庶民に変装してノルブリンガを脱出し、
> インドへ亡命した。
> 3月19日、ついに悲劇は起きた。 中共軍はノルブリンガ宮殿に一斉に砲撃を開始。
> 集中砲火は41時間継続し、宮殿は蜂の巣のように破壊され、何万人という民衆が
> 虐殺されたのであった。
> 3月28日にはチベット政府が完全に解散させられ、チベット自治区準備委員会に
> 統治されることとなったのである。( チベット自治区は1965年に発足した )
> その後も中国共産党による残虐行為は絶え間なく続いた。
> 1959年4月には「民主改革」運動が行われ、ありとあらゆるチベット人が
> 摘発の対象となった。
> 多くのチベット人が出頭を命ぜられ、投獄、殺害された。
> 比較的軽いものでも数ヶ月間の洗脳教育を受けさせられた。
> 以下はダライラマ法王が難民からの報告をもとにまとめたものである。
>
> 「 彼らは銃殺されたばかりでなく、死ぬまで鞭打たれたり、はりつけにされたり、
> 生きながら焼かれた。
> 溺死させられたり、生きたまま解剖されたり、餓死されたものもあった。
> 絞め殺されたり、首をつって殺されたり、熱湯によるやけどで殺された。
> また、あるものは生き埋めにされたり、はらわたを取り除かれたり、首をきられたりして
> 殺された。 こうした殺人行為はいずれも公衆の面前でなされた。
> 村人たちはそれを見物するように強制された。
> 自分の家族のものが強制されて見ているその目の前で、
> ゆっくりと殺されていったのである。
> さらに小さな子供たちは、その両親を射殺するように強制された 」
>
>
> ■ 文化大革命
>
> 1966年5月にはチベットにも文化大革命の嵐が吹き荒れた。
> 8月には紅衛兵の数は1万人に達し、最盛時には十数万に達した。
> 紅衛兵は「四旧」を打破し、「四新」を建設しようというスローガンの名のもとに、
> 数少なくなったチベットの寺院、文化施設を徹底的に破壊し、通りの名称を変更し、
> 個人の家に入り込んで祭壇や民俗家具などをかたっぱしから壊しまわった。
> 民族衣装を着ることもペットを飼うことも屋上で香をたくことも、伝統の模様を描くことも
> 全て禁止された。
> 宗教文献、写本、彫像などはあとかたもなく破壊された。
> チベット語も弾圧の対象となり、会話以外ではありとあらゆるチベット語の書物、
> 教科書、が廃棄された。
> チベット語で印刷されたものといえば毛沢東語録と共産党の宣伝文書ぐらいに
> なってしまった。
> 全ての僧侶は「反動分子」として扱われ、罪名を書いた板を首かけられ、
> 市内を引き回された。
> チベットのありとあらゆるものが破壊された大混乱の10年間であった。
>
>
> ■ 総括
>
> 1978年から始まった改革開放政策によって、中国共産党のチベットによる残虐行為は
> 大幅に緩和された。
> しかし28年間にわたる中国共産党の支配は、2000年かけてチベット人が築き上げたものを
> 根本から徹底的に破壊しつくしてしまった。
> 6000箇所以上あった寺院はことごとく破壊され、完全な破壊を免れたのは8箇所であった
> (それとて全く被害がなかったわけではない)。
> 虐殺、戦闘、飢餓によって120万人のチベット人が命を失った。
> チベットの人口の5分の1に相当する。
> ( 中共侵略前のチベットは貧しくはあったが、その歴史において
> 飢餓を経験したことがなかった )。
>
>
> ■ 今でも続く弾圧、文化破壊
>
> 改革開放以来、大規模な殺戮はなくなったし、仏教を信仰することも可能になったし、
> 破壊された寺院の再建や修復も進んでいる。
> それでもチベット人に対する弾圧は依然として続いている。
> 1989年にはラサでチベット人による大規模なデモが行われ、
> これに対し中共軍が数百人のチベット人を虐殺している
> ( そのときのチベット自治区の共産党書記は胡錦濤である )。
> 現在でも数千人が政治犯として収容されていると言われている。
> ダライラマの写真やチベットの国旗を所持しているだけですぐさま摘発の対象となるほど
> 自由は制限されている。
> ほかにも子供たちにダライラマ法王の写真を踏み絵さたり、
> 中国共産党のイデオロギー教育を行うなど前近代的な植民地支配が継続されている。
> 2006年10月にヒマラヤ山脈を越えてインドに亡命しようとしていたチベット人を
> 人民解放軍が射殺した映像が世界に流れたのは記憶に新しい。
>
> 1995年には即位したばかりのパンチェンラマ11世を拉致監禁し、別のパンチェンラマを
> たてるという暴挙に出た。
> 拉致されたゲンドゥン・チューキ・ニマ少年は当時6歳で、世界最年少の政治犯となった。
> ダライラマ法王は亡命から48年間、一度も祖国への帰還を果たしていない。
>
> 中国共産党は半世紀以上にわたる残虐行為を認めないどころか、
> 「 かつてのチベットは5%の僧侶及び貴族、地主が、95%の奴隷を搾取していたが、
> 中国共産党がチベットを平和解放し、チベットに幸福を繁栄をもたらした 」
> などというまるで幼児向けのアニメみたいなストーリーを「歴史」として宣伝している
> のだから開いた口が塞がらない。
> 当然ダライラマ14世のことは分裂主義者、仏教秩序の破壊者として悪者扱いである
> ( ダライラマ14世は1989年にノーベル平和賞を受賞している )
> 近年特に深刻なのは大量の中国人がチベットに入植していることである。
> もともとチベットの一部分であった青海省は今や中国人が多数派となっている。
> チベット自治区では今でもチベット人が多数派であるが、2006年7月の鉄道開通によって
> 今後は自治区内にも大量の中国人が入植することが予想される。
> 大規模な虐殺や破壊はなくなったが、今でも中国共産党によるチベット文化の破壊は
> 着々と進んでいる。
> 50年代から70年代にかけてチベット文化は徹底的に破壊されたが、
> さらに80年代にかけてチベットの中国化が強化されている。
> ラサ市街は今や社会主義国らしい地味な5階建てのコンクリート建築が並び、
> チベットらしさが失われてしまった。
> 道路には北京路、福建路、解放路などの中国的な名称がつけられている。
>
《以下略》
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - 引用再貼り付け此処まで - -
従軍慰安婦問題を責める前に、まずその度重なる戦争犯罪を贖罪して来い。
話はそれからだ。
中国社会に広がる被害女性への理解と支援
中国政府による被害女性への直接的な支援はありませんが、
女性たちが住んでいる山西省では2004年から、地方政府が最低生活保障を行ってきました。
裁判の敗訴に怒った民間の慈善団体や篤志家の基金会による生活支援も始まりました。
何の証拠もないのに、嘘出鱈目を言い張るだけで、生活保護が支給されて、更に篤志家から生活
支 援までして貰えるのか。
そりゃあ、雨後の筍みたいに次から次へと自称元従軍慰安婦婆サマが湧いて出てくるのも道理だ
わ。
2007年から、被害女性の裁判や医療支援をしてきた日本の市民団体や個人によって
日本軍の性暴力パネル展の開催が提起されるようになると、
2009年からは山西省武郷の八路軍紀念館 (中国政府が指定する教育基地) が、
2011年には北京・盧溝橋の中国人民抗日戦争紀念館 (国家A級博物館) などでの開催が
認められました。
これらのパネル展を観た中国の人々からは、性暴力の問題を「民族の恥」や「国恥」とせずに
被害女性の勇気を称える声が高まってきており、自国の加害責任に向き合って被害者支援を
行ってきた日本の市民への関心や共感、中国政府にこの問題への積極的な取り組みを求める
声もあがっています。
メディアやネットによる呼びかけで、高齢となった被害女性への支援カンパも行われるように
なりました。 この20年間で、中国政府と社会には確実な変化がみられるようになったのです。
結局、日本の反日売国サヨクが火の無い所に放火して回っていたという話じゃないか。
こんなことを功績とばかりに嬉々として自身のwebサイトで公表するその神経が理解できない。
[ 画像:テープカット 省略(引用元アドレスをご参照ください)
2009年11月、中国山西省・武郷の国立博物館「八路軍紀念館」で初めて開催された
日本軍性暴力パネル展の開幕式。 ここでは1年半の開催期間中に18万人の来館者があった。
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